もし人間が、毎日の記憶が、例えば、海の中で泳いで魚を獲るコツを無意識のうちに掴んで覚えて、翌日身体が上手く動いてくれて楽に魚を獲れるという程度の記憶システムしかなかったら、自意識という機能は誕生してなかっただろう。もし人間がこんな記憶システムしかなかったら他の動物と同じようにぼんやり生きながら何となくエサ獲って繁殖していく程度だったろう。

人間に自意識が創発される程の記憶システムは、毎朝決まった時間に音が鳴る丸い物体をなんだろう?と考え込むのから解放され、瞬時に目覚まし時計だとわかるような記憶ではない。そんな程度の記憶なら動物や植物でもあるはずだ。

そんな程度の記憶ではなく、もっもレベルの高い記憶、例えば、言葉の意味や使い方を記憶している能力などだろう。

犬が飼い主に愛された経験の記憶、これも人間に意識を創発したような高次元の記憶システムとは違うだろう。

人間は犬とは違って、何々したという体験の記憶以上の何かが自分という存在が何故存在するかを考えるようにしているのだ。

親しい人と別れて悲しい気持ちになったり、新しく誰かと知り合い親しくなって嬉しい気持ちになったり、そういうことは犬でも出来る。

そうではなく、今までのエピソード記憶から洞察し内省し、そのエピソードの中心にいる存在が自分であることを意識できるかどうか、そして、理不尽なことや不条理なことであることを把握できるかどうか、もはや

もはや、いろんな思い出という記憶だけでなく、それを集約して考察する能力が人間に自意識が生まれた大きな要因であろう。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村にほんブログ村 その他ブログへ
にほんブログ村にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ