桑實寺山門
観音寺城跡に向かうには西の桑實寺(くわのみでら)か東の観音正寺のどちらかを抜け、繖(きぬがさ)山に登らねばなりません。


“文芸の郷”の裏手から、桑實寺に向かう道があるようなので、桑實寺から向かうことに。


・・・したのですが、道半ばでアスファルト舗装はなくなりご覧のような山道に。


早朝から飲まず食わずで一山登った身には、中々に辛いものがあります。


ようやく山門に辿り着くと無人。


確か拝観料が必要だったはず・・・と訝しみながら山門を潜るとアラーム音が。


山門にセンサーが設置してありました。


このまま進んで本堂で拝観料をお支払する決まりのようです。
桑實寺参道
山門を潜りぬけた天保銭が目にしたのは、まだ延々と続く石段。


全部でほぼ500段ほどあるとのこと。


膝が笑い始めながらも、自転車で来なかったのは正解だったと思い込むことで自らを鼓舞しつつ石段を登ること20分余り。
桑實寺本堂
ようやく境内に到着です。


寺伝によりますと、藤原鎌足の長男、定恵が白鳳6年(677年)に創建した古刹。


定恵が唐から桑の実を持ち帰り、日本で最初に養蚕を始めたのが寺名の由来だそうで、本堂は室町時代初期に再建されたもの。国の重要文化財指定を受けています。


やはり、こういった歴史を感じさせる建物の方が心が落ち着きます。
影清の背くらべ石
境内で暫し休ませていただいたあと、観音寺城跡を目指そうと重い腰を上げたところ、目についたのがこちら。


“影清の背くらべ石”だそうです。


他にもこの辺りには古くから“影清道”なる道があるとのこと。


平影清。壇の浦の合戦で滅亡した平家の武将ですが、“悪七兵衛”の異名を持つ剛の者・影清は逃亡し尾張の熱田に潜伏。


影清道はその時、平家再興を記念するため、京都の清水寺へ参拝する際通った道だとか自らの眼病平癒のために桑實寺に百日参りを行った道だとかいう言い伝えがあるそうです。


背くらべ石は、その際、武具を付けた景清が、身をもたせて休んだ石とのこと。


境内には他にも“影清目洗い井戸”という、影清が百日参りを行った際、目を清めた井戸があったのらしいのですが、見落としてしまいました。


そういえば上方の落語に「影清」というものがありました。落語での舞台は清水寺だったような。


義経伝説よろしく英雄譚は各地に散っていくものですが、思わぬところで影清に出会いました。