古代にオイディプス王の話があり、その後「エディプスコンプレックス」として語られ直されたということを見ても、男性にとって父殺しというのは心理的に重要なモチーフなのだろう。
私は女性なのでちょっと分からないけどね。
そして、スポーツ選手の場合、尊敬し憧れた選手もまた父親のようなもので、彼らを自分の精神の中で「殺す」ことが必要なときもあるのかな、と感じている。

スノーボードハーフパイプの平野選手と平岡選手は、おそらく以前は憧れたであろう王者ホワイトを「かっこうよくない」と語っていた。
そしてテニスの錦織選手は、尊敬していたフェデラー選手と戦うこと自体を喜んでいたのが、目標への邪魔者としてとらえ、負かすことが出来るようになった。

駆け出しの頃の選手は、憧れの選手を視覚的にとらえ、真似する。先行する優れた選手の持っているものを自分の身体の中に構築し、肉体化する。
つまり、憧れの選手はある意味、肉親のようなものになる。自分の肉体と精神を、その人の「型」を踏襲しながら作り上げていくのだから。
しかし、その選手と戦わなくてはいけないときに、その型は邪魔になる。
オリジナルの相手にとって「その肉体と精神の型」はより自然なもの。逆に、自分自身の持っている資質とはどこか違う部分があるのだから。だから、憧れの選手と直接対決するようになった選手が相手に勝とうとするときには、習得した型に向き合い、本当に自分に合っているもののみを取り込み、要らないものを捨てる、という解体作業が必要になるのか?と感じたのだ。

自分の中の偶像の解体、これも一種の「父殺し」だろう。解体されたあとの良きものは自分の中に残っていても、それは既に「自分のもの」、以前付いていた相手の名前ははずされている。

で、なんでこんなことを考えたかというと、この一年の町田樹選手の大躍進がすごかったから。
彼は髙橋大輔リスペクトで、高校・大学と同じ道を選んでいる、と聞いた。
しかし今はまったく違う存在になってる。そして世界選手権銀メダリストとして登りつめた。
あ、失礼、いやいや、まだまだ先に行く気あります、これで終わる気はありません、といわれてしまいそうな存在にまでなっている。

芸術家指向の町田くんが、かつて、髙橋選手の演技を自分の肉体に「取り込もう」としなかった筈がない。しかし今、どうみてもまったく違う方向で成功を手に入れている。
演技の中にときどき無意識が入り込む髙橋と違って、世界選手権での町田選手の演技は、最初から最後まで、そして身体の隅々にまで意識が届いている。
無意識に身をまかせると、彼の場合、演技がブレてしまうかのように。
完全に自分の方法論を身に付けて、勝負していた。

幸福な父殺しに成功した、町田樹選手に、乾杯。
「エデンの東」の完成、嬉しかったよ。