心眼 | 月のベンチ

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両親の闘病記

私が思うのは、宗教的なものや、心理学的なものではなく、ただ、『思いやりを持って‘みる’』ということなのだ。

見ようとして見なければ、たとえそこにあっても何も見えない。
その人たちの眼を素通りするだけ。

『見よう』
『看よう』
『診よう』
『分かろう』
『努力してみよう』

そういう気持ちがなければ、目の前のものはその人たちにとって意味がないものになる。


でも、それを何度説いても、わからない人にはわからない。

私の思いも、彼らのココロを素通りするのだ。


父親もそういう類いの人だ。
自分が興味のないものは、たとえ家族のことであっても頭には入らない。
大昔、母に言われた言葉を何十年も根に持ち、母の妊娠出産病気、そしてくも膜下発症以後も配偶者たる立場を放棄している。



そういえば、よくこんなことがあった。

動物に興味のない友人と歩いていたとき。

猫好きに多々あるように、私の目はよく猫を見つけた。

でも、友人には見えていなかった。


世の中、そういうものかもしれない。


家族であっても?