朝の9時過ぎ…
「このまま、お看取りになります…」
そう電話口で告げた医師の言葉が頭の中を右に左にと何度もラリーを繰り返し続ける。
状況が飲み込めないままホームに茫然と立ち尽くす私。
医師はそんな私のことなどお構いなく話し続ける。
「ご主人はこちらに出張で来られたようですが今からすぐに来て頂けますか?」
「はい…わかりました」
そういうのが精一杯でやっとの思いで電話をきる。
電話をきったあと私はすぐに反対側のホームに渡る階段を走り始めた。
とにかく家に帰らないといけない。
反対側のホームに着くと仕事中の長女に電話をかけた。
一度目のコールですぐ電話に出た長女は、
「おじちゃんから電話があって今聞いたよ。
すぐに帰るから。」
長女のところには既にダンナの弟から電話があったらしく娘は状況が飲み込めていた。
長女への電話をきると同時に、
マナーモードになったままのスマホが震え始めた。
ダンナの弟からだ。
「もう連絡は来ましたか?
病院から雫さんの自宅に電話を何度か入れたみたいだけど留守電になってしまったとかで…」
病院はダンナの弟にも連絡をしていたらしく、
ダンナの実家は弟が連絡をしてくれていた。
ダンナの弟からの電話をきると間髪いれずにまたスマホが震え始める。
今度はダンナの会社の社長さんからだった。
今から会社の方をダンナの出張先に向かわせてくれるそうで、
社長さんも突然の出来事にとても動揺していた。
社長さんからの電話をきると、
私は途端に何をしてるんだっけ?
何をすればいいんだろう?とパニック状態になってしまった。
もちろん涙なんて一粒も出ない。
いきなり最高難易度の迷路の中に放り込まれてしまった私の頭の中は真っ白をとっくに通り越していた。
また茫然としながらホームに立ち尽くしていると、
自宅方面の電車がけたたましい警笛を鳴らしながらホームに滑り込んでくる。
その音にハッとして我にかえると、
今度は私の母に電話をした。
「あら〜こんな時間に電話なんて珍しいわね」
何も知らない母の声は明るい。
「パパがね…パパが出張先で倒れて…
もうダメみたい…」
母の声を聞いた途端、
鼻の奥がツーンとしてホームの白線が滲み始めた。
思いもしなかった私の言葉に電話口の母の声がみるみるかすれていく。
「今からすぐに出張先に行くんでしょ?
気をつけて!また報告してよ!」
母はそう話すのが精一杯のようで、
受話器から鼻声に変わった母の声が漏れ落ちた。
母への電話をきり、
最後に次女の学校へ慌てて電話を入れる。
次女は前日から期末テストだった。
きっと今もテスト中に違いない。
学校に電話が繋がると先生に事情を話し、
いま受けているテストが終わったら至急次女を帰宅させて欲しいとお願いした。
電話を受けた先生も私の唐突な言葉になんて言葉を返していいかわからなかったようで溜め息混じりの返事が返ってきた。
学校の電話を終え慌しい電話の嵐がおさまると手足の震えが止まらなくなっている自分にようやく気付く。
真夏なのに寒くて仕方ない…
三歩後ろの下がったところに椅子を見つけ、
そこまで歩こうとするけどその三歩すら歩けない。
やっとの思いで椅子まで辿りつき、
ふと、スマホに目を落とすと9時半を過ぎていた。
ほんの1時間前まではいつもと変わりない当たり前の朝の時間が確かに流れていた。
それなのに…
電車がたった二駅走る間に、
私は不思議の国のアリスのようにワンダーランドにでも迷い込んでしまったのだろうか?
またけたたましい警笛を鳴らしながら、
自宅方面に戻る電車がホームに滑り込んできた。
二駅前まで戻れば、
このワンダーランドから抜け出せるかもしれない。
さっきまで鉛のよう重かった足が急に軽やかになり足早に電車へ乗り込む。
早く…早く…もっと早く…
この暗闇を抜けて地上に出れば、
さっきと同じのどかな川面が広がりいつもと何も変わらない朝に帰れるはず…
ガタンゴトン…ガタンゴトン…
私の鼓動と同じ速さで電車が暗闇を走り抜けていく。
ようやく電車が地上の明るさに包まれ始めてくると私は目の前に広がる景色を見て愕然とした。
さっきまでののどかな川面は光を失い…
色を失い…
モノクロに包まれたまるで三途の河のように変貌していた。
遠くに見える街並みも全てモノクロに染まっている…
ワンダーランドでもなんでもなかった。
ただの現実…
逃げようのない現実…
モノクロに染まった街並みは、
これから歩む私の人生のプロローグを告げていた…