例えば、

子供の写真を見て話しかけるとか。

いつか出来るようになるのかな、と思う。

まだ出来ない。

笑いかけるとか。

形だけやってみようとして、引きつった笑いになる。

母の寝室の枕元には息子の写真があって、

そこで見るとよかったね、って思うの。

おばあちゃんはずっと愛してくれてるんだね、よかったね、って。

でも自分の部屋にある写真は

ただそこにあるだけ。

いつもあるってことは感じてるの。存在は。

でもほとんど見ない。

見ないで通り過ぎてる。

感情を持たないようにしてる。

持ったら、やっていかれないから。

見ない自分の冷たさ。

見ないけど、仕舞うことも出来ない。

せめてもの罪滅ぼしみたいに、苦行みたいに置いてるなんて、それも申し訳ない

と思うけどどうしようもなく、

時が止まったような、とか言うように

そこに置いた時と変わらない、同じ感情のまま。

母の家に行くと安心するのはそれもあるのかもしれない。

穏やかな気持ちであの子の顔が見れるから。



仕事してると

手が粉だらけになることがあって、

そうすると思い出す。

小さい姪っ子に狼と七匹の子山羊を読んであげた時のこと。

黒い手を粉で真っ白にして戸口から差し込み、

子ヤギたちを騙すオオカミの声。

コンコンコン、お母さんよ、開けてちょうだい?

子ヤギが食べられちゃう、ってドキドキしながら私にしがみついて、

でも絵本から目が離せない姪っ子。

思い出すとなんとも言えない気持ちになる。

私は、たぶん、

あの子にも読んであげたかった

と思ってるんだろうな、

と思う。