街場のメディア 内田樹著
以下、印象に残ったところの
抜粋及び私的要約
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適性って何だ?
就職と結婚は似ている。
適性や潜在能力を見極めて
就職、結婚するという順番ではない。
仕事をしてみて、結婚をしてみて
自分の適性や能力を知る、という順番。
他人からタスクを要求され
それをクリアしていくうちにわかったり
能力を発見したりするもの。
もっといえば
就職後、結婚後の幸・不幸は事前にはわからない。
自力で構築するものだから。
与えられた条件のもとで
最高のパフォーマンスを発揮できるよう
自身の潜在能力を選択的に開花させること
そういうマインドセットが肝。
人間が大きく変化し
その才能を発揮するのは
いつだって「他者の懇願」「他人のため」。
自分の適性に合うかどうか
そんなことはどうだっていいんです。
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ラジオとテレビ
テレビはビッグビジネスになり
大きなシステムの中で動いているので
「つつがなく放送する、終了する」ことが
目的になっている。
その点、ラジオはお気楽。もっと自由。
(硬直していない)
このカジュアルさがラディカルだったりするし
親近感を覚える。
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マスメディアの嘘と演技
「こんなことが許されていいんでしょうか」
自分がその中にコミットされておらず
無知、無垢であることで
責任逃れをしている。
これは報道陣として禁句に近い。
メディアは世界の成り立ち(マップ)を示すことが
第一の社会的責務だ。
しかし、このような「演技的無垢」が
社会的な態度として広く流布されてしまった。
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正義の暴走
メディアはつねに正しいことだけを
選択的に報道している、というありえない夢を追っている。
事実によって反証されたら、
ただちに撤回すべき。
そのことが、メディアの中立的で冷静な判断力を保証する。
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定型で語る
不特定多数の相手を想定することで
よりわかりやすく伝えようとする、
その方向性があまりにも単純明快になりすぎ
善悪勝敗二元論になる。
あとは責任を取りたくないということもあってか
先行する類似の記事の文体や切り口を
参照し書かれ、伝えられる、
そうした無限参照の中で「定型」が形成される。
メディアが急速に力を失っている理由は
固有名と、血の通ったからだを持った個人の
「どうしても言いたいこと」ではなく
「誰でも言いそうなこと」だけを
選択的に語っているうちに、
そのようなものなら存在しなくなっても
誰も困らないという平明な事実に
人々が気づいてしまった
そういうことではないかと思う。
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せめて僕たちにできることは
自分がもし「世論的なこと」を言い出したら
とりあえず、いったん口を閉じて
果たしてその言葉があえて語るに値するものかどうか
自省することくらいでしょう。
自分がこれから言おうとしていることは
もしかすると「誰でもいいそうなこと」ではないのか。
それゆえ、誰かに「黙れ」と言われたら
すぐに撤回してしまえることではないのか。
そう問うことは大切です。
どうせ口を開く以上は
「自分がここで言わないと、たぶん誰も言わないこと」を
選んで語るほうがいい。
それは個人の場合も、メディアの場合も
変わらないのではないかと思う。
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メディアは常に変化を求める
かわらなくてよいものまで(時間が必要なものまで)
性急な変化の必要性をあおりがち
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拡がる「中規模」メディア
マスメディアは「口当たり」のよい情報になりがち。
その点、ミドルメディア(数千人~数十万人規模)は
自粛がなくフィルターがかからない分、闊達だ。
(良いほうにも悪いほうにも振れると思うけど)
同じような切り口の加工品ではなく
新鮮、時にとれたて、ユニークな料理人の情報を見つけるには
うまくこういうミドルメディアを利用していくのが
得策ではないか、と本を読んでいて改めて思う。