想像のレッスン 鷲田清一


日常の知覚は常に運動の中にある

が、わたしたちが眼にとめるのは、記号やモノといった

意味の薄膜に覆われた形象ばかりだ。

「何」という意味にふれ、見た気になって

さっさと通り過ぎる。

だが、そのときわたしたちは、表示位された、

あるいはモノを枠どる意味を見ているだけであって

物を見ているわけではない。

ありふれたモノとしてその意味をかすめつつ

物にふれずに通り過ぎる。

わたしたちの日常は、見ているつもりでじつは

見えていないものだらけだ。


言い換えると

日常とは意味によって枠どられ

しかもその意味をすりきらせたもので充満している。

そしてそれを主題化しようとすれば

その注視するまなざしから

するりと漏れ落ちてゆく。

黙過され、つねに欄外におかれるもの

この分りきったもの

ありふれたものの集積が日常なのだ。


この集積を総体として縫っているもの

それがストーリーだ。

テレビから流れる空話や噂話

空疎な政治談議や仰々しい事件の記憶

人生論や家族・国家・グローバリゼーションといった

大ぶりな観念のしこり・・・


日常はそうした雑多で大ぶりな観念や意味のしこりの中に

紛れ込んでいる。

だからといって、そのしこりを解除し、その覆いを剥がせば

その姿を現すかといえば、ことはそう単純ではない。


そのしこりを編み上げてゆくのが日常そのものなのであり

編み上げたそのしこりのなかにまぎれたまま。

しこりを磨耗させて別のしこりへと編みなおしていくのが

日常だからである。