ぜいたくな気分で美しい毎日を!・・・ヴェーネレ美容法
マルグリット・ド・ヴァロワは、

フランス アンリ2世

王妃カトリーヌ・ド・メディシス の娘。


フランソワ2世 シャルル9世

アンリ3世 の妹であり、

ナバラ 王アンリ、

後のフランス王アンリ4世 の妃。


王妃マルゴと呼ばれ、

アレクサンドル・デュマ

歴史小説 王妃マルゴ 』の

ヒロインになりました。


イザベル・アジャーニ主演の

映画で有名です。(写真)


マルグリットはパリ 郊外の

サン=ジェルマン=アン=レー の城で

アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの

三女として生まれました。


ニックネームのマルゴは、

後にそれぞれフランソワ2世、

シャルル9世、アンリ3世となった

3人の兄たちによって

名づけられたそうです。


幼い頃から際立つ美貌と

ギリシャ語 ラテン語 などの語学や

哲学 などにも造詣が深い彼女は、


宮廷の華として誰もが憧れる

絶世の美女として

成長していきました。


何不自由のなく成長した

マルゴには大勢の男性が

求婚をしました。


彼女が結婚したいと願ったのは

ギーズ公アンリ でした。


しかし、彼女の望みは

母カトリーヌ・ド・メディシスに

よって打ち砕かれます。


母は、激化するカトリック ユグノー

宗教対立を解消するために

彼女をユグノーの指導者

ナバラ 王子アンリ・ド・ブルボンに

嫁がせようと、


アンリの母であるナバラ女王

ジャンヌ・ダルブレ

交渉を行っていました。


当初、カトリック教徒と息子との結婚に

反対していたジャンヌ・ダルブレも、


カトリーヌの宗教対立解消

という考えに同調し、

縁談はまとまりました。


しかし、ジャンヌ・ダルブレは

婚礼の直前

急死してしまいます。


一説にはカトリーヌ・ド・メディシスによる

毒殺ともささやかれる

不審な死でしたが、


婚礼は予定通り

同年8月17日

パリで行われました。


その時マルゴは19歳、

新郎アンリは18歳でした。


しかし婚礼の6日後の8月24日

サン・バルテルミの虐殺 が発生。


マルゴとナバラ王アンリ

(母の死後に王位を継承)

の婚礼のために

パリに集まっていた

大勢のユグノーたちは


次々に惨殺され、

アンリ自身も

幽閉されることとなりました。



ナバラ王アンリが

パリの宮廷から脱走すると、


マルゴは一人アンリ3世の

許に残されました。


その後、ナバラ王アンリの許に

送り届けられましたが、

それぞれに愛人がいて、

夫婦仲は冷え切っていました。


マルグリットは病に伏した後、


パリの宮廷に戻りますが、

兄アンリ3世と仲違いをして

宮廷を去りました。



ナバラ王アンリはアンリ4世として

フランス王位に就きました。


マルグリットとの間に子供はなく、

仲も疎遠になっていて、


正式に離婚しました。


その後アンリ4世は、

マルグリットの母カトリーヌの遠縁である


再婚しました。


離婚後もアンリ4世と、

その一家との関係は

友人として良好だったといいます。


特にアンリ4世とマリー妃との子である



イ13世 を可愛がり、

館と領地を遺贈しました。


1615年5月27日のマルグリットの死で、


ヴァロワ家 の血統は


庶流を除いて完全に

途絶えてしまいました。


マルグリットは派手な

男性遍歴で有名でもあり、

兄たちと近親相姦

関係にあったという噂もあります。


フランソワ の政界工作のため

フランドル に赴いた際、

ネーデルラント 総督

ドン・フアン・デ・アウストリア を魅了し、


ドン・フアンは

「あれは、男を救うというよりは、

破滅させるたぐいの美しさだ」

という言葉を残しました。


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