私のお気に入りのHP"きんちゃん・・・”で北京オリンピックのことが書いてあった。私も、開会式を見て感動しました。中国も(矛盾をかかえながらも)国の威信をかけてがんばっているんだろう。TVを見つつ、こんなことを考えた。
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「現代の中国(中華人民共和国)とはなんなんだろう」ということです。「共産主義」国家制度を維持しつつ、経済のみ開放している。共産主義(全然理解できていませんが)の理念のひとつの"私有の制限(特に土地)"が開発の名の下で暴威をふるっている(ようだ)。どこの国でも、理想は「最大多数の最大幸福」(18世紀のイギリスの哲学者ベンサムの言葉)なのでしょうが、政治的には、(まず)国の成長が第一で、その後に種々の矛盾を解消するという順番になる。日本の明治時代の富国強兵政策もその考えのひとつだろう。多少の矛盾はあっても、全体の成長をめざすという考えです。ただ、現代の中国は、ちょっと違う(のではないか)。やはり「共産主義」という理想が理想から離れたとき、その理念そのものがとてつもない怪物に変身して猛威をふるっているように思われる。といって、人間の欲望そのものを発展の駆動力にするという米国流のやりかたも、とても理想とは思えない。ただ、人間の本性をベースにしているので手強い。それでは、日本はなんなんだろう・・・。一党独裁の(矛盾だらけの)社会主義国というところか。本来はいい仕組みと思うのですが、私を含めた国民がそのレベルに達していないのか、なにかが崩壊しているというか・・・。

このような(私の小さな脳みそでの)妄想は延々と脈絡無く同じところを繰り返す。ので、ここらで終わりとし、表題の話です。

●バッハ:ヴィオラ・ダ・ガンバのために・・・/ヒレ・パール(ガンバ)他ヒレ・パール2
これは、台東区中央図書館で借りました。
演奏曲目は、BWV995/BWV1011とBWV1025とBWV1029です。いずれもヒレ・パールが編曲したもののようです。ただ、BWV1025、BWV1029共に、オリジナルにあるオブリガード・チェンバロが入っていないのが面白い。彼女がなぜチェンバロを入れなかったかは解説には書かれていない。ただ、彼女が「私が想像する18世紀の音楽仲間は、きっとこのように弾いたのだろう」と言っている。私も、この演奏を聴いてそう思った。チェンバロよりリュートの伴奏のほうが(絶対)ガンバに合っている。
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各曲ごとに、感想を少し。

ヴィオラ・ダ・ガンバのための組曲ニ短調BWV1011/995
(原曲:無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調BWV1011/リュート組曲(第2番)ト短調BWV995)
これは、ガンバの独奏。たしかにチェロとは異なる。ガンバで弾くとこんな感じになるのか。または、ヒレ・パールが弾くとそうなるのだろうか。ただ、私には、この渋い曲はチェロやリュート(又はギター)のほうが表現力があると感じる。ただ、渋いが故に長く聴くとそれが好きになる場合もあるので、評価は保留。

トリオ イ長調BWV1025(シルヴィウス・レーオポルト・ヴァイスによる)
(原曲:(ヴァイオリンとチェンバロのための)組曲イ長調BWV1025)
これは、ガンバとリュートの二重奏。もともと、ヴァイスのリュート曲だった曲に、J.S.バッハがヴァイオリンパートを付け加えたのものらしい。そのせいか、リュートとの掛け合いが心地よい。解説では、長い間BWV1025は偽作とされていたが、ヴァイスの曲に同じものが発見され、バッハが自らこれを編曲してヴァイオリンパート等を追加し、チェンバロとの曲にしたらしい。ヴァイオリンなら華麗なチェンバロのが合うが、ガンバならリュートが合う(と思います)。

ソナタ ト短調BWV1029
(原曲:ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ(第3番)ト短調BWV1029)
この曲は、ガンバ2、リュート、バロック・ハープ、ヴァイオリンの室内楽になっている。おそらく、ドイツの古楽界では、バッハの曲をより自由に演奏しようとするのが流行のようだ。確かに、弾いていて楽しそうだし、中心にヒレ・パールのガンバがある。これが、なかんかいい雰囲気になっている。
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ヒレ・パールは「当時の音楽文化は、作曲家というものは、象牙の塔にこもって創作を行う天才ではなく、音楽の現場に一員として参加していた。音楽の素材は、特定の機会のために開発されるが、(その後)交換され、すぐにその場のインスピレーションや個人の技量や欲求に従って演奏された」と言っている。最初のソロ演奏は私にとっていまいちですが(やはりソロは難しい)、リュートとガンバの二重奏やガンバを中心としたアンサンブルは、とても楽しい。
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なお、「最大多数の最大幸福」をHPで調べると、このベンサムの言葉は(私の理解より)もっと奥が深く、人間の本質を言い当てているようだ。ベンサムは「最大多数の最大幸福は、道徳と立法の基盤である」「正しい行為は最大多数の最大幸福を実現する」と言い、(神の掟や王の命令や習慣といった)外から押し付けられた既成の道徳を拒否した(らしい)。そして、その「正しい行為は、その結果得られる快楽の大きさで計ることができる」としている。この思想は現代でも過激です。彼の思想は、人間の欲望を神の束縛から解き放った「パンドラの箱」(だった)かもしれない。

・・・ということで。