私の身近な人は小学校の先生です。最近こんな話を聞きました。
お昼ご飯をたべながら...。
「みんな夏休みはどうだった」
「先生は、(宮崎駿の)『崖の上のポニョ』を見たよ」
「え~~。先生ってそんな映画を見てんの。それって子供が見る映画じゃん」

この会話は何年生の会話か?実は1年生なのです。
かわいいといえばかわいいのですが、わたしなら、「おい。おまえら、あのな~~」と言うところ。
とても、こんながきんこの先生にはなれないな~と思いました。

で、首記の本です。
出張用に読みやすい本として購入した「音楽史ほんとうの話」です。

●その前に
なお、ちょっと(私にとって)難解なT.G.ゲオルギアーデスの「音楽と言葉」も読んでいます。この本は、宗教曲(ミサ曲等)を中心に「歴史的弁証法」というきり方で、ギリシア時代から現代まで(中心はカロリング朝からバッハまで)を鳥瞰している。・・・と書いても、私自身が良く理解できていないので、もうすこし後で。

●音楽史ほんとうの話/西原稔/音楽の友社/ON BOOKs21音楽史
この本は、出張時に気楽に読める本ということで買っておいたものです。今週の通勤と日帰り出張の行き帰りで読みました。ところどころに(私にとって)面白い表現がある。ただ、最初に読む本ではない(と思うが、もちろん最初に読んでも良い)。この本の面白さは、今まで読んだ音楽(史)の知識が、この本で補完されるというところと思われる。私にとっては、(やはり)バッハのところが面白い。以下に本の構成と、感想を少し。

歴史の闇から蘇ったバッハの物語
作曲家たちのバッハ体験
違うと思うところ
「結婚カンタータの自筆パート譜の発見が話題になるのは、バッハが一度歴史の闇に消えたからである」ですが、バッハだけが歴史の闇に消えたのだろうか。同時代やそれ以前のバロック、ルネッサンスの作曲家はどうなのだろうか。みんな、まとめて消えたのではないだろうか。ここらをきちんと教えてほしい。「歴史の闇に消える」という定義もはっきりしてほしい。
  ★
「偽作」という言葉もあいまいだ。これらの偽作は、後世の音楽家や出版社が勝手にバッハの作品に入れてしまったものであり、ほんとうの作者もバッハ作にしようと思ったものではないだろい。骨董品の「贋作」とは意味が違う。「偽作」と評価されたとたんに、手のひらを返すように冷たく扱われるのは、偽作という汚名をきせられた曲がかわいそうだ。
参考になったところ
なんといってもフォルケルの話。私もフォルケルの「バッハ小伝」は読んでいます。バッハの息子や娘と親交があったほぼバッハと同時代の音楽関係者のバッハ伝は、やはり現代のバッハ伝とは違うオーラを感じる。そのバッハ伝に無いフォルケル自身のことが書いてあり、とても参考になった。この記事を読むだけでも、この本を購入した価値がある。
モーツァルトはいつから「神の子」となったのか
楽聖に託された近代の理想—ベートーヴェンはなぜ逸話だらけなのか
ロッシーニはなぜオペラ創作の筆を折ったのか
清く貧しい薄幸の音楽家シューベルト—『未完成交響楽』のイメージは真実か?
ベルリオーズは誇大妄想症?
ブラームスは近代の夕暮れの響き
批評家の見たリヒャルト・ヴァーグナー
『モルダウ』の裏に流れる民族の想い—スメタナの抱いた理想と現実
プッチーニははたして様式の乗っ取り屋か?
ロシア国民楽派の作曲家はアマチュア?
近代フランス音楽の生みの親、サン=サーンスはなぜ嫌われるのか?
私の大学時代の思い出のひとつが、サンサーンスの交響詩「死の舞踏」です。このヴァイオリンのソロを(客演ではなく)私の大学のコンサートマスターが弾いていた。それがなんといってもかっこ良く、その光景が○十年たったいまでも思い出す。そしてその雰囲気は私の頭の中で理想化され、中途半端なナマクラオケの演奏はとても聞けない。そういう意味で、私にはサンサーンスは特別の存在なのです(この本の記事とは全く関係は無いですが)。
あとがき
買う前にこのところを見て共感しました。
「(私は)大学で西洋音楽史を講じているが、音楽の歴史を教えることの難しさを実感している。・・・異文化の西洋音楽を実践する場合、過去の音楽を学ぶことが現在の私にとってどのような意味を持っているのかと言う課題に、教える側も学ぶ側も向かい合うことになる。」
「過去の西洋(クラシック)音楽は(すばらしいが)異文化」という感じは私もずっと持っている。で、著者の「まじめさ」に共感した。なお、私にとって自国の古典音楽(笛、三味線、琴、箏など、歌舞伎、能も入るかも)も異文化です。

・・・ということで。