身近な人は一泊二日で千葉の温泉に職員旅行です。それで、昨夜は一人で寝ています。
身近な人の行っている学校は江戸川区なので、千葉から通っている先生もいる。それで、今回の職員旅行はとても不評で、参加者も例年より少なかったらしい。一部屋に7人詰め込むという団体旅行で、旅館は潤ったかも知れない。身近な人は、幹事が旅行代理店の人に言いくるめられたのではないかと、(多少)怒っていた。
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それで、なんとなくのんびり。一応、だらだらと部屋の掃除とベランダの植物の水遣りをやって、スーパーでお寿司のパックを買って夕飯。単身赴任の頃を思い出しながら、寝室で氷を入れたワインを飲みながら(酒は弱いんです)ごろごろ(and)だらだらとTVを見ていたら、ついつい寝てしまった。その後、深夜に目が覚めた。

●見た深夜TV
「絆 家族と歩む音楽少年」/フジTV掛屋
2時半だったか3時だったか目が覚めて、なにげなくTVをつけたら、掛屋剛志(くん)のドキュメントの再放送(?)をやっていた。掛屋剛志くんは、知的障害や視覚障害を持っていて、さらに、成長ホルモンの分泌不全や低血糖症などがある。今は、長崎県佐世保市の佐世保養護学校に行っているようだ(TVの収録当時は中学3年生)。
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ついついTVに見入ってしまった。私はひねくれものなので、感動の話はしません。ただ、彼の音楽的センスに羨望を感じた。また、最後の映像は、彼が演奏するユーミンの「春よこい」でした。おそらく彼の「お気にいり」なのだろう。これは私にも判る。私もこの曲を聞いて、そのリズム、感覚に「天才(天賦の才能と言う意味)」を感じた。掛屋剛志(くん)に対しても同じです。
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また、映像から掛屋剛志くんの顔立ちを見て、両親と祖父・祖母の家族の雰囲気を感じた。両親と祖父・祖母のがんばりが目に浮かぶ。剛志くんにも、これから、つらいことはあるだろうが、がんばってほしい。私が言えることはそれだけです。

●聞いたCD
漂白の旅人・芭蕉/寺田農(朗読)
芭蕉最近、江東区亀戸図書館で借りて聞いています。まず「漂白」の意味がわからない。「漂白剤」をすぐ思いつく。HPで調べても何も書いていない。想像するに「世の中に身を晒し、紺の絣(かすり)が擦り切れて真っ白になるような生き様」ということなのだろう。前記の掛屋くんの話の次にこれを書くのは心苦しいのですが、芭蕉の死生観というか「(当時から現代に通じる)世間」というか、ちょっと気になる一句を書いておきます。なお、私にはこの一句の意味を理解しているとは言えません・・・。
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富士川のほとりを行に、三つ 計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、 こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
猿を聞人捨子に秋の風いかに
(さるをきくひと すてごにあきの かぜいかに)

いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる欤、母にうとまれたるか。 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。
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「袂より喰物なげてとをる」をどう解釈するか。確かに、日本人の死生観には、放り出すような冷たさがある。これを「無常」と言うのかもしれないが・・・。歴史が示すキリスト教(教会)の残酷さを知ると多少偽善っぽいが「博愛」と言う概念は日本仏教には無い(と思う)。捨て子をお寺に連れて行っても、引き受けることは無いのだろう。そうすると、「偽善でも博愛」か「無常」かの二者選択になる(たぶん)。そうなると、自分自身は「無常」で、行動は「偽善」を取るのが、今の私の立場です。といっても、「大きな偽善」はできません。

(追記、9/14夜)
「猿を聞人」の意味を下に書いておきます。
「教養なんてくそくらえ」と思いますが、知らないと意味がわからない。でも、今はインターネットで直ぐにわかる。教養が無い私でも多少理解できる。世の中進歩したものだ。「猿を聞人」とは下記の意味があるようだ。
ここでの「猿」は、「断腸」の語源となっている「人間に我が子をさらわれた母猿が深く悲しみ、死後、母親の腹を割いてみると腸が千切れ千切れになっていた」という中国の故事中の猿を言い、この母猿の切ない鳴き声は、古来多くの漢詩文中で取り上げられている。
う~ん、こんな教養を知ると、先の句がいやらしく技巧的で面白くなくなる。私の関心は、直ぐに死んでしまうだろう捨て子を見て、断腸の思いでかわいそうと思いつつ、技巧的な句を読んで立ち去るという(おそらく)当時の常識の凄さです。この凄さは現代の世の中に通じる。それが凄い。

・・・ということで。