ちょっと不思議に思うこと。
日本でも古楽器演奏家が増えている。私のような一般の愛好家は、「(ただ単に)その雰囲気が心地よい」というので十分と思いますが、異文化の日本で、このような西洋古音楽を生涯の糧としてやるというのは、どういう頭の整理をしているのだろうか。外人はきっと「異教徒で異文化の日本人が、なんで西洋音楽をやっているんだ。日本人は自分の音楽をやっていろ」と思っているのではないか。それだけ、西洋音楽の他文化に対する破壊力(よく言えば普遍性)はすごいのだろう。私の世代が、日本文化をまともに教えられなかったせいもあるかもしれない。私自身も不思議と思いつつ、西洋の古楽を身近に感じます。

●音楽と言葉/T.G.ゲオルギアーデス/講談社学術文庫音楽と言語
第2章古代及びカロリング朝以前の時代
この本は、ギリシア時代からルネッサンスまでの長い潜伏期間を、カロリング朝で区分している。西洋史では、カロリング朝(特にカール大帝の時代)は特別の意味があるようだ。カール大帝は800年にはじめてローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得た。これは、理念的にも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から自立した象徴的な事件だったようだ。そして、キリスト教音楽も独自に歩みを始めた(らしい)。
この本では、カロリング朝以降、音楽の主流はアルプス西方(いわゆるドイツ語圏)に移ったとしている。私には、ここらの妥当性を判断できませんが、この本を「ドイツ音楽史」と見ると理解できる。
  ★
この章を読んだ私の理解を挙げておきます。
カロリング朝以前の聖歌は単声法だった。
グレコリオ聖歌の旋律は全音階的音階(教会旋法)で、ローマ教皇グレゴリウス1世(540年生?~604年没、在位590年-604年)のころにまとめられた。
教会旋法は8つの型があり、それぞれの型の中ですべての音は同じ重要度をもつ。近世の調性音楽はトニック収斂するが、教会旋法はそのような規則に従わない。J.S.バッハの作品にも教会旋法が取り入れられているものがあるようだ。いくつかのHPの解説を読んで感じたのですが、西洋音楽の「調性」というのは、それなりに理論的に構築され強力ですが絶対ではないということ。このような旋法による音楽は、調整音楽の限界を超えるなにかを持っているのかもしれない。こんなのは、既にクラシック以外の世界では当たり前なのかもしれないが、その感覚は私にとっては斬新です。
カロリング朝になって、アルプスの西方で行われていたブルドン伴奏(旋律に対して伴奏音が変化せず、バグパイプのように持続して鳴り響くもの)が教会音楽と融合して、多声化が進んだ。

●聞いたCD
連休の土日で下記のCDを聞きました。
マラン・マレ 夢見る女、その他のヴィオール作品集/ソフィー・ワテイヨン(ヴィオール)マラン・マレ
ソフィー・ワテイヨンはサヴァールのエスペリオンXXにもいたことがある女性ヴィオール奏者。収録曲は、J.S.バッハとほぼ同時代のフランスのサント・コロンブ(17世紀)とマラン・マレ(1656~1728)の作品。それにしても、このフランスのヴィオールの曲は、J.S.バッハ、テレマン、ヘンデルといった錚々たるドイツ系音楽とは全く異なる印象がある。この違いはどこからくるのだろうか。とにかく不思議な音楽です。こういう曲を聴くと、ヴィオールが人間の声に似ている楽器というのが実感できる。

・・・ということで。