あT.G.ゲオルギアーデスの「音楽と言葉」(講談社学術文庫)を読んで、言っていることがなかなか頭に入らない(他のブログでも同じことが書いてあったので、安心して言える)。その入門として、30年程前に読んだ掲題の本を読み返した。皆川さんの「中世・ルネッサンスの音楽」は、ゲオルギアーデスの歴史的弁証法的アプローチよりは、一般向けの本なので判り易い。
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この本を読み返してふと思った。日本を含むほとんどの世界の音楽は5音階(らしい)のに、西洋の音階はなぜ7音階なのだろうか。ギリシアのピタゴラス学派が7音階を発明したのだろうか。おそらく7音階は、ピタゴラス以前から古代ギリシアに存在し、それを理論付けたのがピタゴラス調律なのだろう。そうすると、5音階と7音階の違いはどこから生じたのだろうか。1オクターブの音に全音と半音が混在しているのが不思議だ。半音を抜かすと5音になる。アラブの世界には、1/4音階もあるらしいが・・・。なぜ、西洋の7音階(12音階)が異常な発展をしたのだろう。もちろん、半音階がないと、J.S.バッハの音楽等の西洋音楽は無かったと思うが・・・。これを書いていて、バッハの半音階的幻想曲とフーガBWV903を聞きたくなった。
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でも、古代ギリシアの音楽理論を受け継ぎ、熟成し、J.S.バッハに繋げた中世・ルネッサンスの西洋音楽の歴史を、当時の残酷でいい加減なキリスト教(会)の歴史を横目で見つつ、敬意を持って知りたいと思う。
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なお、教会旋法のところを読むと、日本の陰旋法や陽旋法といった日本旋法をもっと知りたくなった。つまり、グレコリオ聖歌の時代、日本では奈良~平安時代に相当する時代であり、そのころから化石のように変わらずに現代に伝わっている「雅楽」がある。この「雅楽」はどんな「理論」があるのだろうか・・・。「雅楽」は非常に閉鎖された世界の話で、一般民衆には(ほとんど)広まらなかったのだろうか。(ほんの少し)興味が出てきた。

●中世ルネッサンスの音楽/皆川達夫/講談社現代新書
抜書きと感想を、(あくまで)自分のためにまとめておきます。
中世・ルネッサンス音楽の楽しみ-序にかえて
○古代ギリシアの音楽は、その後の中世音楽とは全く異なった論理によっている。それで、古代ギリシアの音楽をヨーロッパの音楽の原点とみなすことはできない。古代ギリシアが残した遺産は音楽理論(ピタゴラス音律等)とその美学であり(オペラにつながる)音楽劇であった。
第1章キリスト教と音楽
○東方教会聖歌(ビサンツ聖歌、シリア聖歌、アルメニア聖歌、アビシニア(ヘジプト)聖歌等)が、西ヨーロッパの聖歌に影響を与えた。それが発展してグレコリオ聖歌にまとまった。
○音楽と宗教の結びつきと発展は、どちらも形にとらえられないという共通性と、(形式的であっても)偶像崇拝禁止という戒律と関連があった(皆川さんの見解)。
○中世の音楽の音楽観
(神学的には)「音楽」とは、下記の3段階になっているらしい。
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●ムージカ・ムンダーナ
宇宙(コスモス)の音楽、聞くことはできない。
●ムージカ・ファマーナ
人間の精神と肉体(つまりミクロコスモス)の音楽、聞くことはできない。
●ムージカ・インストロメンタリース
われわれが言う聞くことができる「音楽」(器楽曲という意味ではない)
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つまり、世界(コスモス)を形作っているのは、聞くことができない「(天上の、かつ精神の)音楽」で、その2つの「音楽」の一部が顕在化されて「ムージカ・インストロメンタリース」になるのだろう。これらは、私でもなんとなく理解できるし、共感できる。
○ローマ帝国の分裂の後、西方教会では東方教会を範として独自の聖歌を作ってきた。それが7世紀初頭のグレコリウスの時代になって体系が整った(グレコリオ聖歌)。それが西ローマ帝国滅亡の後のフランク帝国のカール大帝のの時代になって確立し、西ヨーロッパ全域に広まった。
○グレコリウス聖歌には東方教会の影響が見られるが、その後の発展の基礎となった西洋音楽の独自の形態(下記)の要素も伺える。
●3度の音程を積み上げて旋律を作る傾向
●ひとつのモチーフを核として楽曲全体を構成する造形性
●終止に向かって一環して流れる合目的な論理性
●長調、単調への志向

このような西ヨーロッパ音楽の傾向はすばらしい。やはり敬意を評する他は無い(私の意見)。
○グレコリオ聖歌は教会旋法で作られている。教会旋法は、d,e,f,gの4つの終止音を中心に、終止音から始まる正格旋法と、終止音の4度下の音から始まる変格旋法の8つの旋法からなる。楽譜に書いてみると、正格旋法も変格旋法も同じだが、当時の人々は旋律のベースの音に着眼していて、異なる旋法と考えたのだろう(皆川さんの見解)。
○グレコリオ聖歌はネウマ譜法で記載されている。ただ、楽譜の記載は不完全であり、旋律の音高、音程は判るが、リズム判らない。現在、歌われているのは、フランスのソレム修道院の研究者の解釈に基づいているが、異論もある。ただ、カトリックの典礼にふさわしく鳴り響くことも事実だ(皆川さんの見解)。

以上、序と第1章の覚書です。残りは(その4)に書こうかと。

●買った本
●ニッポンの犬/岩合日出子(文)、光昭(写真)/新潮文庫

犬出張帰りの浜松町の本屋で、なにげなくこの本を発見。本の表紙を見て、その凛々しさに惹かれ購入しました(でも、富士山を背景にするのは、技巧的過ぎるのではないか)。この本の構図はかなり古臭いが、私の好きな小さくずんぐりだが凛々しい犬がいる。なお、犬は人間が品種改良により作り上げたものです。で、日本犬の姿には(アイヌを含む)日本人の文化が反映されていると思います。この本を我が家の最も小さい部屋に置いて、ときどき見ようかと。

●フルトヴェングラー/岩波新書(復刻版)
古本屋では150円で売っているらしいが、私のテリトリーのブックOFFでは置いていない。たまたま、復刻版ででていたので購入。

・・・ということで。