西部戦線異状なし-無駄学数日前のTVで偶然面白い番組を見た。無駄学というのがあるらしい。働きアリの話です。働きアリは、エサ場と巣の間を行ったり来たりしてエサを運ぶのが仕事なのですが、働きアリは滅私奉公の遺伝子が組み込まれているロボットのような悲しい生物と思いきや、そのうち2割は、寄り道をしたりしてなまけるアリがいるらしい。この解釈は、エサの運搬という意味では非効率だが、なまけアリがいるおかげで新たなエサを発見できるので、種の存続には必要なこととなる。いわゆる「無駄の効用」が遺伝子的に許容されている。え~と、つまり、神が「なまけ」を許容していることになる。この先生(西成さん)が言いたいのは、無駄を含め物事はそれだけ複雑ということらしい。車のハンドルの遊びが無ければ安全な運転が出来ないとか、40メートルの車間距離を取ると渋滞解消になるとも言っていた。途中から見たので全体の論点が不明でしたが、私なりに解釈すると「無駄」とは複雑な構造をもっていて、広い視点でその構造を分析することが真の効率化に繋がる。これは普通の生活にも役立つということらしい。この手の本を1冊読んでみようかと(上記の本です)。
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でも、ふと考えた。そうすると「芸術は(人類に対する)無駄の効用」で、「芸術家はなまけ働きアリ」なのだろうか・・・。これでは寂しすぎる。「無駄こそ生き甲斐」という逆転の考えもあり得ると思う。

で、首記の本です。

●バッハ伝承の謎を追う/小林義武/春秋社
西部戦線異状なし-バッハ●第2章演奏習慣の諸問題
前回で第2章が終わらなかったのでもう1回第2章です。
器楽および声楽編成の問題
それぞれの作品でどんな楽器が使われていたのか、合唱曲は何人で編成されていたのか等、古楽を演奏するにはいろいろ研究課題があるようだ。それが、バッハの作品の作曲年代が明らかになるにつれ、新しい見解が出てきているらしい。この章では,その1例として通奏低音について述べられている。
通奏低音を受け持つ楽器は、リュックポジティブオルガン、チェンバロ、テオルボ(アーチェリーリュート類)、ヴィオローネ(コントラバスの前身)、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ファゴットといったものがある。
昔ゲバントハウス管弦楽団などが行なっていた低音弦楽四重奏(鍵盤楽器を受け持つ声部もチェロやコントラバスに展開して奏する)をオリジナルとは無縁のロマン派の発明にすぎない。また、教会カンタータの通奏低音は、合唱部分はオルガン、レチターティーヴォやアリアはチェンバロといった使い分けは根拠のない仮説だ。
教会カンタータの通奏低音は、「オルガンとチェンバロが併用されていた」という有力な見解がある。小林さんは、教会カンタータの通奏低音は基本的にオルガンという意見のようだ。カンタータの楽譜で「チェンバロ用」と明記されたパート譜(和音を示す数字が付いているのもチェンバロ用と解釈)は存在するが、大半は1740年代の晩年のもので、バッハが自ら書いたものではない。チェンバロはトーマス学校やバッハの自宅で練習用に使われたものではないか。
従来チェンバロ曲と信じられてきた7曲のトッカータ(BWV910-BWV916)は、実はオルガン曲だったという仮説がある。その理由は、楽譜に「マヌアリター(手鍵盤用)」という記載があるため。「マヌアリター」とか「ペダリー」と表記が必要なこと自体オルガン用だったことを示すというのが根拠らしい。これは決着が付いてないが注目する説と小林さんは言っている。なお、この「トッカータ」はグールドのピアノ演奏がある。私は、オルガンの演奏は聴いていないので、どちらが妥当かというより、まずはオルガン演奏を聴いてみたい。
合唱団の構成
教会カンタータの合唱は4声部それぞれ3人の計12人というのが通説であるが、実際は4人のソリストで歌われたという新説がある。なお、バッハが1730年にライプツィッヒ市に出した請願書では、各声部3人必要であるが4人ならなお良いと書いているが、トーマス学校の生徒55人のうち17人は使いものにならず、20人は未熟なので、歌手として使えるのは17人のみで、これを使い回すと1回の演奏で調達できるのは4人になるということらしい。小林さんはこれを盲目的な歴史主義として排している。
奏法の問題
バロック的テンポ
近代の音符は相対的なもので、全体のテンポはアンダンテと言った言語表現で速度を表現しているが、バロックの時代は、音符そのものが絶対的長さを表わしていた。しかしながら、それ故に現代になると、どんな速度が妥当かは判らなくなっている(らしい)。息子のエマニュエルは「父の演奏は迅速だった」と言っているが、フリードリッヒ大王のフルートの師だったクヴァンツがその理論書で「(音の速さは)人の脈を基準にせよ」といっていることを頼りに、72拍(1分に詩文音符が72)を提唱し標準になっているらしい。ただ、現存しているバッハの楽譜自体に2倍の差があったりして、結構難しい問題があるらしい。その現状を受けて、小林さんは、アーノンクールの提唱を紹介している「。演奏家はテンポんの表示が楽譜にない場合、つぃぎの要因を考慮して適切なテンポを見いだすべきとしている。
1)音楽的情緒、特に歌詞
2)拍子の種類
3)その曲で使われている最も小さい音符の種類
4)強拍が1小節にいくつ含まれるか
これを考慮すると、適切な速度が自ずと出てくるということのようだ。なお、私はバッハの無伴奏チェロやリュート曲を弾くだけなので、標準の早さというものはあまり重要視していない。やはり、そのときそのときで、弾きたい速度が変わる。
●弦楽器のヴィブラート
バロック時代は、ヴィブラートは装飾音の一種として扱われた。なお、リュート等の楽器は、音を伸ばす手段として許容されていた(らしい)。

この章で小林さんは、バッハの時代と完全に同じ演奏というのは再現不可能だ。だからといって(プロの)演奏家が勝手な解釈をして良いと言うことにはならない。ただ、なんせ古い時代のことなので、もはや演奏家個人がこれらを解決するのは難しい。演奏家と音楽学者が手を組んで協力するのが必要と結んでいる。私の感想ですが、そうはいっても、音楽学者の「理論」を無視し、(良くも悪くも)自分の音楽の感性のみでバッハを弾きたいというのが、演奏家の感覚ではないだろうか。私は、音楽学者はアンナこと言っているが(ということを知った上で)、おれは俺流でやるという演奏家が好きです。あのグールドのように・・・。

・・・ということで。