昨日(3/7)は主婦の一日だった。

○送り迎え(身近なひとが年度末の通信簿作成で休日出勤している)
○送り迎えの間に、掃除、洗濯、植物の水やり。そして、スーパーでの買い物。
○夕飯の準備(カレー)。
○息抜きのテレビ(これがやめられない)。
○お風呂(と単行本の読書)。

昨日の至福の時は、お風呂での読書です。
お風呂での読書は半身浴になるので、多少体にも良いと思っている。
それで、今度お風呂CDプレーヤーを買う予定にしています。

もう一つ、書いておきたいのは、
やっと身近な人から「朗読で、バックに私の演奏を使ってもよい」と言われたこと。同じ朗読の仲間が知人の三味線のカセットをバックに朗読をやった。それに刺激を受けてその気になったらしい。ただ、途中で間違って最初からとかなるとお客のひんしゅくを買うので、最初はCDROMにいれてやろうかと。なお、肝心の題材はきまっていない。考えると組み合わせとか難しい。そのような演奏会も行ったことがないのに気がついた。あのテデスコの大作「プラテーロと私」というのがあるが、少し荷が重い。最初はもっと気楽なものにしたい。


で、首記の本です。

●バッハ伝承の謎を追う/小林義武/春秋社(その7)西部戦線異状なし-バッハ
本の構成は下記。
●1.バッハ研究の現状
●2.演奏習慣の諸問題
●3.「バッハ復活の背景」-ロマン派のゴシック的バッハ像
●4.バッハをめぐる偽作の問題
●5.「フーガの技法」の謎
●6.晩年のバッハとその作品-バッハ像修正の試み
●7.「ロ短調ミサ曲」のバロック的普遍主義

第3章の構成は下記3つの節からなる。
●(1)ロマン派以前のゴシック受容
●(2)ロマン派のバッハ受容
●(3)「マタイ」蘇演の放った光

今回は第3章第3節からです。
なお、以下は自分のための覚書です。
●(3)「マタイ」蘇演の放った光
●ユダヤ人のプロテスタントフェリックス・メンデルスゾーン(1809年-1847年)がバッハの死後約80年後の1829年に、ベルリンの合唱協会の建物でマタイ受難曲の再演を行った。小林さんは「これ以降、理念的音楽の地位はベートーベンからバッハに移った」と言っている。なお、このときメンデルスゾーンは20歳という若さだった。
●この演奏会には、ドイツ観念論の完成者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770年-1831年)が聴衆として聞いていた。小林さんは、ヘーゲルの奥さんはこの合唱協会の会員だったので、「この再演に参加したかもしれない」と言っている。
●ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年-1832年)によりゴシック建築がドイツ固有の芸術として再発見され(実は、ゴシック建築はフランスが起源)、それがドイツ国民運動につながり、その流れの中でJ.S.バッハの音楽がゴシックとの類似性から再評価され、マタイ受難曲の再演につながった(と小林さんは言っている)。
●ゲーテ自身はバッハとゴシックを直接結びつけた発言はない。ただ、ゲーテはバッハの音楽を熱愛しており、平均律等の楽譜を持っているほどの熱心なバッハフアンだった。メンデルスゾーンもヴァイマールにゲーテを訪れたときバッハを弾いている。
●フリードリッヒ・シュライアー・マッハ(1768年-1843年)はベルリン大学の神学者。メンデルスゾーン家の音楽サロンにしげしげと通い、若きメンデルスゾーンに影響を与えた。彼は、ドイツ観念論の立場から「神は感じるもの」と言ったが、その結果として、芸術と宗教の区別があいまいになった(と小林さんは言っている)。
●グスタフ・ドロイセン(1808年-1884年)はドイツを代表する歴史学者、政治学者だが、メンデルスゾーンの親友で「ベルリン・詩・文学・批評向け談話誌」にこのときの感想が掲載されている。小林さんは「ドイツ観念論の芸術観を反映し、宗教と芸術の境界があいまいになっている。」と言っている。
●なお、ニーチェはバッハの音楽を「野蛮な音楽」と評していたようだ。「バッハにおいては粗野なキリスト教主義、粗野なドイツ性そして粗野なスコラ性がまだ多くある」、とか「彼はヨーロツパの(近代的な)音楽の入り口に立つてはいるが、そこから中世を振り向いている。」と言っている(らしい)。この評価は、あのシュバイツアーの有名な評価「バッハは一つの終焉である。かれから生じるのは何もなく、すべてひたすらに彼に向って進む」につながる。小林さんはバッハの音楽に対するこの「粗野な」という感覚的理解が「ゴシック」の理解につながっていて、ゲーテの「ゴシック」建築の見直しの過程で、(粗野な)バッハの音楽も見直されたと言いたいのだろう。

上記覚書は、断片的で何をいっているか(さっぱり)わからないと思いますが、とにかくバッハ復権には「ドイツ国民運動」があり、ドイツ観念論に基づく理念的背景を重要視する価値観から、芸術の宗教化の流れでJ.S.バッハの音楽が評価されたことがわかる。え~と、バッハ復活はドイツというローカルな国の特殊性があった(ということ)。なお、そのローカル性は、ドイツ30年戦争の悲惨からの復興と国土の統一という悲願があったし、その延長上に、ご承知の「ナチ・ヒットラーの第3帝国(の音楽)」に至るという歴史の皮肉がある。
なお、私がほんとうに知りたいのは「(私を含む)極東の日本人がなぜバッハを好むか」という回答なのですが、それは依然として「謎」のままです。一応、陳腐で簡単な回答があるにはあるのですが・・・。

・・・ということで。