今度の連休で車で郷里仙台に帰ります。
心配は、麻生さんの景気対策で高速道路が1000円になったことによる交通渋滞。身近な人から「レール&レンタカーで行こう」という提案がありましたがお金には変えられません。体調を整え早朝移動の予定です。なお、TVニュースで「普段運転しない人も高速に入ってくるので更にあぶなくなっている」という話があった。お金ドキドキかといえば、答えは決まっているのですが・・・。

で、首記の話です。
バッハの音楽を聞きながらバッハ関連の本(私の定義はかなり広い)を読むのが私の趣味なので、その一環で、今は、私のお気に入りのogawa-JさんのHP湘南の音楽室”の研究論文"をプリントアウトし、ついでに関連する他の記事(小学館のバッハ全集の解説本など)なども参考にして読んでいます。

以下はその寄り道のほう。

●息子たちが伝えたバッハ作品/ペーターヴォルニー/バッハ全集15巻
この記事は、メンデルスゾーンのバッハ復興運動のはるか以前の、より古い時代のバッハ伝承者に焦点をあてている。私が特に興味を持っているヴィルヘルム.フリーデマン.バッハも、父J.S.バッハの作品の価値を認め大事に取り扱っていた。これは、今まで私が読んだJ.S.バッハの記事と違っていて新鮮だった。
記事の構成西部戦線異状なし-フr-デマン
○「受容史」のはじまり
○遺産分割と楽譜の流出
○楽譜伝承の問題点
○フリーデマンの手稿譜
○ハレのフリーデマン
○アルトニコルの筆写譜
○フリードリッヒの恣意性
○エマーヌエルの役割



ヴィルヘルム・フリーデマン.バッハ(1710年-1784年)
(以下は私自身のための覚書)
・J.S.バッハの最初の妻のマリア・バルバラの二番目の子供で長男。作曲家であり即興演奏家。
・1746年-1764年の約20年間はハレの貴婦人教会のオルガニストを務めるが、1764年以降は定職につかずベルリンで貧窮のうちに死んだ。彼の作品は多感様式として最近再評価されている。なお、J.S.バッハの作品にもその一端がうかがえるとの話もある。
・J.S.バッハの本で断片的に出てくるフリーデマンは、才能は認めるがJ.S.バッハの芸術を理解せず作品を散逸させたとしてその評価は「ぼろかす」だ。
覚書(抜き書き)
○「受容史」のはじまり
・J.S.バッハ死後、J.S.バッハの受容は18世紀後半はゲッテイェンゲン大学の音楽監督フォルケル(1749年-1818年)やベルリン合唱協会会長を務めたツエルター(1758年-1832年)の私的サークルの中で引き継がれたが、1750年から1780年の間は、歴史から忘れ去られた空白期間と言われていた。
・この間、バッハの伝承は、フリーデマン他のバッハの息子や弟子によって様々なサークルで地域的、超地域的に行われていた。
○遺産分割と楽譜の流出
・1750年11月の遺産分割の公文書には楽譜に関する記載がない。楽譜の分割はこれに先立ってJ.S.バッハ自身により家庭内で行われた(ようだ)。
・J.S.バッハは5年分のカンタータを年次ごとに整理して持っていた。第1年間~第3年間は相続はだいたい分かっている。第4年巻、第5年巻のほとんどは散逸した(らしい)。そして、フォルケルの「故人略伝」ではフリーデマンの相続分が失われたことが暗示され、それがフリーデマンに対する誹謗中傷を生んだ。
○楽譜伝承の問題点
・実際は、C.Ph.E.バッハの相続とされていた楽譜を、フリーデマンがハレの演奏会で使った証拠がある。兄弟は離れて暮らしていたが、かなり時がたっても兄弟間でオリジナルの楽譜の交換し助け合っていたのではないか(著者の推測)。
○フリーデマンの手稿譜
・著者は「フリーデマンが、金銭欲からJ.S.バッハの作品を売り飛ばしたようなことはなかった」と弁護している。
・フリーデマンは、分割相続で手に入れたカンタータのほぼすべてのオリジナル楽譜がベルリンに残っていたことが証明されている。彼が父J.S.バッハの相続楽譜(の価値をみとめ)を最後まで手元に保管していた。
・フリーデマンがJ.S.バッハの手稿譜を手放そうとしていたことを示す1778年の書簡が引き合いに出されるが、これでも、手に入りやすいテレマンの楽譜は売りに出したが、オリジナルのJ.S.バッハ手稿譜は一点も売られていない(と著者は言っている)。
・そして、フリーデマン自身の作品に対する精密さと細部に至る行き届いた完全主義者の姿勢は、J.S.バッハの作品のパート譜の作成にも配慮が見られる。
○ハレのフリーデマン
・フリードマンによるJ.S.バッハのカンタータ演奏には、J.S.バッハの作品に手を加えないという控えめな態度がある(一方、エマニュエルはその逆だった)。
・ハレの20年間、フリーデマンはJ.S.バッハのカンタータに(謙虚に)集中的・実践的の取り組んだことから、J.S.バッハ受容史のなかで軽視されるべきではない(著者の主張)。
○アルトニコルの筆写譜
・アルトニコルとは、フリーデマンの義弟でJ.S.バッハの直弟子。
○フリードリッヒの恣意性
○エマーヌエルの役割

以上、書き入れないがJ.S.バッハの息子や直弟子により、J.S.バッハの作品が意図的に選択され演奏されていたことが示されており、J.S.バッハ伝承がJ.S.バッハの死直後から連綿と行われてきたことが示される。

いつもながら、記述は不十分でまとまりがないですが、ここまでと。