図書館と喫茶店とスーパの買い物以外は出不精で(というか平日、サービス残業で働くので休日は疲れてしまい結果的にそうなる)、生の演奏を聞く機会が(きわめて)少なくなっている。それで(というわけでもないですが)最近、いろいろな方がブログで紹介されているU-tubeの演奏を聞いています。

そこでたまたまヒットしたのがビアソラのリベルタンゴ。

ライブなので、ミスもあるがこの演奏を聴いて刺激を受けた。早速、だいぶ前に900円で購入しほこりをかぶっていたギター楽譜(この演奏とほぼ同じ編曲)をひっぱり出して弾いてみた。そこそこ弾けるが、(私にとっては)楽譜の見た目より難しい。つまり、タンゴであるだけに、この曲の基本となるリズムを維持しつつ、全体を演奏するのが(とても)難しい。U-tubeの演奏はそのベースのリズムが良く表現されている(と思う)。

おなじU-tubeでヒットしたヨーヨーマ他の演奏を聞いてみた。

やはり、曲のシャープさはヨーヨーマ他の演奏の方が良い(もちろん、ギター独奏も悪くない)が、なんといっても、ギターで一人でこの曲が弾けるのはうれしい。ただ、ベースのリズムを残すためギターの運指が少し難しくなっている。手の小さい私にはつらいが、それでも、新たな刺激をもらい多少やる気になった(あとは気力がどこまで続くか)。なお、最後は協和音で終わるギター(ついそうしてしまうのは判る)より、ヨーヨーマのほうが断然よい。
  ★
でも、私にとってメインはやはりバッハか。そして、さらに年老いたら、シンプルなバッハの曲を、一人でゆっくり弾いていきたい。カザルスは最晩年には、バッハの無伴奏チェロ組曲5番(BWV1011)サラバンドを弾いていたらしい。カザルスは衰えたとき、この単純な旋律に何を感じ奏でたのだろうか。私もそれに習いたい。

で、首記の本の話。

●マックス・ヴェーバー入門/山之内 靖/岩波新書西部戦線異状なし-マックスウエーバー
5月の連休で1/3ぐらいしか読めなかったので、先週ある程度読んだ。
私は、マックスウエーバー(1864年-1920年)の本は、「職業としての学問」と「読書について」を読んだ程度で、彼の本業のほうの「社会学」には(きわめて)疎い。、今後も読むことは無いだろうと思っていたが、衝動買いしてしまった。読んでみて、J.S.バッハ関連で、キリスト教の本(特に宗教改革前後)やニーチェの本(悲劇の誕生)を最近読んだことが役立った(かも)。これもバッハのおかげか。この本は「入門」なので、さらに奥がある。なお、私の趣味は「(気が遠くなるほど深い)世の中」ではなく「バッハと音楽」なので気が楽です。ここで得た「キィワード」は、J.S.バッハを生みだしたヨーロッパを知り、一時信じていた「近代合理主義」の呪縛から離れるのに役立つと思う。

本の構成
プロローグ-近代知の限界点に立って
第1章 神なき時代の社会科学
第2章 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」再訪-悲劇の精神
第3章 精神の病-死と再生のドラマ
第4章 古代史発見-回帰する時間の社会学
第5章 受苦者の連帯に向けて

覚書
○純粋に宗教的な特徴を帯びた言説が、説教者たちの意図を越えた形で、経済的な行為の領域に影響を及ぼすという飛躍(逆説)、宗教的であるからこそ、その非合理的な心理的衝撃を介して、経済の領域における合理化へと向かう心理的機動力が与えられる。その不連続、あるいはパラドックスが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の主題。
○ルターは、1517年の「95ヶ条の論題」から始まった宗教改革の中で、「神に召された職業労働」という観点を、ドイツ農民戦争(1524年)のなかで、「現生の秩序に順応すべき」という伝統主義に戻っていく。むしろ、職業労働を「神からの招命」とする観点はカルビニズムによって意味づけられた。え~と、「予定調和説」の系統ということか。
○宗教改革の文化的影響の多くは、宗教改革の運動から生じた「予期せざる結果」、しかも「意図せざる、改革者の念頭にあった正反対の結果」だった。宗教改革の意味は、従来の合理的職業観(労働の目的を、この世において生をできるだけ豊かにすることという、幸福主義、快楽主義)から、修道院という切り離された特別な空間で行われていた「禁欲的で"合理的"な労働」を、日常の職業労働の場に開放したことにある。この職業観が、西洋近代の資本主義を発展させた。
○そして、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、カルヴィニズムの(非人間的)信仰が、資本主義精神へと結晶していくプロセスを分析している。
○つまり、え~と、それやこれやで、ウエーバーは、プロテスタントの牧師が、ルターやカルヴァンの教説を平易に信者大衆に行った説教そのものが、信者によって取り入れられる過程で、信者の(労働)精神中に生みつけたのが怪物「資本主義」ということ(らしい)。そしてこの「資本主義」には、「貴族的英雄的精神」によって立ち向かい得るとのことのようで、これはニーチェの「超人」に通じる。マックスウエーバーは、ニーチェの「悲劇の倫理的基底」を批判的に継承したとも解釈される(らしい)。
○ソビエト連邦崩壊以前は、このような宗教的精神が経済の下部構造を構成するという世界観は、弁証法的世界観のマルクス経済学者から徹底して批判されたが、このような「非合理的合理化」という解釈は、マルクスの「資本論」第3巻「個人資本における歴史的考察」にも近い分析があり、社会科学の世界ではマックスウエーバーとマルクスには相似性があるという評価になってきているらしい(ここらの理解は、間違っているかもしれないので、とりあえずこの本を読みなおしてみよう)。

で、何を言っているかわからなくなってきた。この本がマックスウエーバーの正統的解釈かどうかはわからないが、(私にとって)いろいろな引き出しが多い。結局、この本は「入門」であってももう1回読まないと、頭の中で整理できないようだ。章毎に覚書を(自分のために)整理してみようかと。

・・・ということで、今回はここまで。