数日前に、天海祐希のTVドラマを見た。
「余計3兄弟」と「アラフォー」とか「アラサー」という言葉を思い出し、少し考えた。
そうすると,30超えは「オ(-)バサン(十)」
という冷え冷えとした話。
自分では大発見かと汗
  ★
昨日はキムタクの新番組「Mr.Brain」を見た。
最初だけでは判断できないと思いますが、残念ながら「いまいち」の感じ。
なお、スーパーでは「Brainパン」を売っていた。これはおいしかった。
彼の役は、事故で突然天才になり且つ女性に魅力を感じられない脳学者という設定。
それなら、結末はこの逆になるのだろう(たぶん)。
でも、身近な人が(いっしょうけんめい)見ているので、私も(付き合いで)見ることになるかと。

で、首記の本。

●マックス・ヴェーバー入門/山之内 靖/岩波新書西部戦線異状なし-ウエーバー
マックスウエーバー(1864年-1920年)に多少興味を持ったので、前回の続きを自分のために。
(改めて)この本の構成
プロローグ-近代知の限界点に立って
第1章 神なき時代の社会科学
第2章 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」再訪-悲劇の精神
第3章 精神の病-死と再生のドラマ
第4章 古代史発見-回帰する時間の社会学
第5章 受苦者の連帯に向けて

彼の簡単な生涯と著書
●第1期(1889年-1897年)
・中世商事会社史(1889年、学位取得)
・ローマ農業史(1891年、教授資格取得)
・父親と衝突。父親が家を出て自殺(1896年)
●第2期(1898年-1909年)
・神経症により大学に辞表提出(1898年)、正式辞任(1903年)
・イタリア療養(1903年)
社会科学および社会政策の認識の『客観性』(1904年、社会学の認識論に関する優れた論文らしい)
・プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(1904年-1905年、雑誌掲載)
・文化科学の論理の領域における批判的研究(1906年)
・古代農業事情大幅改訂(1909年)
●第3期(1910年-1920年)
・神経症から快癒した時期。
・世界宗教の経済倫理(1915年)
・ヒンドゥー教と仏教(1916年)
・古代ユダヤ教(1917年)
・職業としての学問、職業としての政治(1917年)

覚書
○彼は「比較宗教社会学」の元祖。
○wikipediaには、「彼の研究は、世界宗教の経済倫理として一般化され、古代ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、儒教、道教などの研究へと進んだが、原始キリスト教、カトリック、イスラム教へと続き、プロテスタンティズムへ再度戻っていくという壮大な研究は未完に終わった。」と書いてある。ざっくりとみるとそうなのだろう。
○情念の力が持つ危険な盲目性を知りながら、やみがたい内奥の力で、既に出来上がった規範の外に飛び出していく。権利として社会に承認された行為でないがゆえに、誰にも責任を負わせることができず、自分一人がその重荷を一生負い続ける。
○これはニーチェの人間の罪を是認し、その罪により引き起こされる苦悩も是認する「悲劇でありながら悲劇そのものを喜びとする」るという「悲劇の倫理的基底」を書いた「悲劇の誕生」と共鳴する。
○あの世紀末の時代、一夫一婦制からの解放といったような宗教化したフロイト主義(という社会現象)を、近代的な権利の問題ではなく(宗教的規範から飛び越えざる追えない「人間」の)運命のレベルで共感を示した。ウエーバーはこれを「英雄的倫理」と言ったようだ。

以上が、この本の第3章「精神の病」のところ。
第4章「古代史再発見」では、マックスウエーバーの研究は「資本主義の倫理」から更に広がり、「国家資本主義と官僚制」などについても考察している。ここも(バッハと音楽、ついでに世紀末の音楽を知るのに)役立ちそうだ。あの時代、そして第一次世界大戦後の時代(今からみると第二次世界大戦前夜の時代)、それから100年後の現代、経済の仕組みが高度化し社会倫理は多少変わったが、結局50歩百歩なのが判った今、マックスウエーバーは今日的意味を持つのだろう(たぶん)。なお、彼の死後出された論文集の中に「音楽と社会」といったのがあった。一体、どんな内容なのだろうか。

(おまけ)
かれの論文「社会科学および社会政策の認識の『客観性』」の概要を書いたHPを見つけた。読んでみると、なかなか面白い。マックスウエーバーは、さすがに方法論をきちんと考え、そのうえで詳細、多岐にわたる考察に取り組んでいったのが判る。以下はその概要の一部の勝手な引用です。

科学的考察がなしうること
① 目的と手段の適合性の検証
② 行為の意欲された結果と、意欲されなかった結果との[相互]秤量
③ 意欲されたものの意義に関する知識の提供
④ 意欲された目的とその根底にある理想の批判的評価
科学的批判の目的
①方法上正しい科学的論証が達成されたら、シナ人によっても承認されねばならない。
②ある内容を論理的に分析し公理にまで遡り、他方、そうした理想の追求の帰結を解明する企てが首尾よく達成されたら、シナ人にも妥当しなければならない。

ここで「シナ人にも・・・」というのは「サルにも・・・」ということのようだ。すこしつらいが、当時の情報と理解では仕方が無いので非難するつもりはない。

・・・ということで。