先週は、身近な人の中学校同期会(土曜)、運動会(日曜)だった。それで、先週は、私一人で家族のかいものを適当にやったため一昨日(金曜)は冷蔵庫が空っぽになり、家族からはすこぶる不評だった。それで、昨日は、南砂ショッピングモールSUNAMOで、身近な人に連泊出張の日当の還元とスーパーで大買い物をしました。
  ★西部戦線異状なし-スナモ
なお、私が楽しみにしているのは「味見」。
昨日の味見は下記。
「浅漬けのかぶ」
「アイスクリームが入ったコーンフレーク」
「ウインナー」
「焼き肉」(2回)
(これがおいしかった)
「(無糖)午後の紅茶」
(小さなティッシュの箱3箱もらう)
「ヨーグルト」

そうそう、そのモールにある輸入食品雑貨屋さんのコーヒーサービスも飲んだ。
「潔癖症の人は味見ができない」らしいが、私はそうではない。
ただ、新型インフルエンザが流行したら、まず、これをやめないといけないだろう。
とにかく、大きな「スーパー」はこれがあるから楽しい。

で、首記の話です。

先週は連泊の出張があった。いつもは、売れ筋の新書は古本屋で半額で買うのですが、日当の先取りで大盤振る舞いで松岡正剛の「多読術」(ちくまプリマー新書)を購入し、それと図書館で借りたアドルノの「音楽社会学序説」を読みました。

●多読術/松岡正剛/ちくまプリマー新書
西部戦線異状なし-多読術この本は対話形式で書いてあり、気楽に読める。詳しくは、既にいろいろなブログで紹介されているので書きませんが、2つだけ覚書として書いておきます。
●「無意識」
音読から黙読に変わったとき「無意識」が生まれた。この指摘は鋭い。ただ、そうかもしれないが、本当にそうだろうか。「言葉」そのものが生まれた最初の時、「言葉」の範囲で(意識と同時に)無意識が生まれたのではないだろうか。だから「(何らかの)言葉」を持つ動物にはそれなりの無意識を持っているのではないか。なお、松岡さんは書評ブログである奇書(書名を忘れた)を紹介したのを思い出した。「昔の人類は右脳と左脳の連携が不十分だった。それで、右脳から「神の声」を聞いていた。」と書いていた。これは不思議で、さもありなんと思われる仮説と思う。この考えは、「昔、言葉は音楽だった」というフルトヴェングラーの言葉につながるのではないか。そして「無意識」は「音楽」につながっているような気がする。
●「本は二度読む」「鳥瞰力と微視力」「目次を読む」「本はノート」
これらは言わずもがなで同感。なお、私は本当の読書の面白さは、彼の言葉でいえば「微視力」にこそあると思うし「行間を想像する」ことが至福の時ではないかと思う。最後はそこに帰るのではないだろうか。それで、松岡さんは最晩年、どこに帰るだろうか(彼自身は帰る港がないのかも)。または、最後まで走り続けるのかもしれないが、それはそれで良いだろう。

●音楽社会学序説/Th.W.アドルノ/平凡社ライビラリー
この本は、やっと半分ほど読みました。(気が向けば)後ほど。以下、簡単な感想を少し。
・アドルノ(1903年-1969年)の言葉は結構難しい。あとがきに、アドルノは言葉を多義的に使っていて「訳者泣かせ」と書いてある。ドイツ人からも「まず最初にドイツ語の勉強が必要」と言われていたらしい。確かに、文化系の頭のいい人は、理科系の人(簡潔にまとめるのが好き)と違って頭が多重化しているようだ。
・アドルノはユダヤ系の哲学者。第二次世界大戦でアメリカに亡命した。この本の後書で、彼はシェーンベルクと同じくアメリカのマスプロ大衆社会になじめなかったのではないかと書いてある。たしかに、当時よりさらに相対化(ある意味ではサブカルチャー化)が進んだ現代からは、彼の音楽社会学論文は化石のような古い印象を持つ。ただ、(正統?)西洋音楽擁護の立場から、音楽の大衆化を社会学的に批判したその論点は鋭い。なお、少し軸足を大衆に移したら良いのにとも思った。もうすこし彼に付き合ってみようかと。

(追記)
なお、アドルノの業績は、「ナチの研究等から、人間を解放へ導くはずの「啓蒙」が逆転して新しい野蛮を生み出す近代文明・管理社会の本質を厳しく批判したことにある」ようだ。例えば「同一性」「自己形成の途上でさまざまな抑圧と克己を経るうちに、画一的な自分のあり方を身につける。その自分に「他」を同一化=統合させようとするとき、すべての悪の根源としての「暴力」が始動する。」からの解放を説いたらしい。

●買った本
●マックスウェーバーと近代/姜 尚中/岩波現代文庫
西部戦線異状なし-マックスウェーバー
この本は、岩波新書の「マックスウェーバー入門」を読んだので、もう1冊読んでおこうと思い購入。私は、興味ある物事を知るためには2冊本を買うことにしています。
著者は、熊本生まれの東大教授、政治学者・姜 尚中(カン サンジュン、1950年~)。本書『マックス・ウェーバーと近代』は彼の処女作らしい。
  ★
宗教がひとつの全体性を象徴する意味の体系でなくなっている以上、キリスト教を含めどの宗教といえどもイデオロギー的な寓話に過ぎない。マックスウエーバーは、宗教も特定の価値関心に基づいて構築された理念型的な「フィクション」とみなし、その文化の社会的意義を明らかにしようとしたのが「宗教社会学」。マックスウエーバーがこのような世界観を持ったのは、半アジア、半ヨーロッパ的なロシアの研究からだったようだ。
  ★
この本は、第1章から第3章でマックスウエーバーの思想を解説し、その切り口で、近代の象徴アメリカニズムを論じている。私は、とても拙いレベルですがキリスト教を西洋音楽の下部構造を考え、それを理解しようとしてきましたが、マックスウェーバーに至りなんとなく(それなりの)輪郭が見えてきたような気がする(これも、私のいつもの勘違いかもしれないが)。
●本の構成
序章「いまなぜウェーバーか」
第1章「西洋的合理化の起源―「古代ユダヤ教」に即して
第2章「西洋的合理化と近代の時代診断」―「近代西欧」の意味像
第3章「合理化と近代的な知のアポリア」
第4章「アメリカニズムの倫理と「帝国」の精神」


マックスウエーバー的切り口は、グローバル化を進んでいたアメリカニズムと同時に、キリスト教文化の良いところ(あると思います)を引き継がず、資本主義システムのみを引き継いだ(と思われる)明治維新後の旧日本、そして共産主義の体制下での国家資本主義をまい進する中国にも当てはまるのではないだろうか。ただ、私がこの本を読んでいるのはそういうのが目的ではなく、何度も言いますが、これは「バッハと(西洋)音楽」を知るための回り道なのです。

結構読みかけの本が増えてきた。
これらを音楽を聴きながら(そして、多少は趣味のギターを弾きながら)少しづつ読んでいこう。
・・・ということで。