この本を、音楽関係書として読んでいます。斜め読みの後、多少ゆっくり読んでいます。やっと姜 尚中さんの言っていることか(なんとなく)判ってきた。というか、マックスウエーバー研究学者は、マックスウエーバー的論理展開にみんな感化されてしまうのではないか。そして、そのような言い回しで書かれているこの本が面白くなってきた。

●マックスウェーバーと近代/姜 尚中/岩波現代文庫西部戦線異状なし-マックスウェーバー
まえの、マックスウエーバー入門/岩波新書も面白かったが、これも違った形で面白い。というのは、「入門」とちがって、マックスウェーバー全体に取り組んでいる。そして、ユダヤ教からキリスト教の思想的展開も知ることができる。とにかくその表現がおもしろい。そのいくつかを覚書として書いておこう。
構成
序章 いまなぜウェーバーか
第1章 西洋的合理化の起源-古代ユダヤ教に即して
1節 宗教的脱魔術化
2節 事象化と同胞愛
3節 脱魔術化の起源
4節 原始キリスト教
第2章 西洋的合理化と近代の時代診断-近代西洋の意味像
1節 「職業としての学問」をめぐる相克
2節 学問の危機と危機の学問
3節 学問の合理性と専門知
4節 学問の職分と専門知
第3章 合理化と近代的な知のアポリア
1節 「高度資本主義」と「時代診断」
2節 神中心の世界像と事象化の精神
3節 若干の展望
4節 学問の職分と専門知
第4章 アメリカニズムの倫理と「帝国」の精神

私の勝手な印象ですが、姜 尚中さんはタイトルの付け方は「ヘタ」ではないか。

覚書
とりあえず、思いつくまま書いてみよう。
●「序章 いまなぜウェーバーか」
○以前は、社会現象に対するアプローチとして「ウエーバーかマルクスか」という議論があったらしいが、価値の相対化が進んだ現代、マックスウェーバーは忘れ去られた存在だった。
○ただ、その後「近代」の底割れの状況になり「地球全体が文明に飲み込まれてしまった現在、内定崩壊の中で、数え切れないほどの人間が、文明と無縁の野蛮な生活状態に突き落とされ」ている。
○この「近代のなれのはてが野蛮に帰着する」ことを唱えたのいが、あのアドルノであり、その元祖がマックスウェーバーであり、近代合理主義の病理を容赦なく糾弾した「ニーチェアン」だった。ただ、ウエーバーは単なるニーチェのエピゴーネン(無批判に踏襲する模倣者)ではなかった。
○ウエーバーが(概念の破壊者)ニーチェと決定的に袂を分かつのは、ギリギリのところで知的誠実さと学問的廉直を、論理方法的なルールにのっとって、世界観や価値の対立について「理性的」に確認しあえる「相対的合理性」を根幹に据えたことにある。
→このぎりぎりの「相対的合理性」こそが世界平和につながるんだと思いますが、この言葉自体私自身は全然理解していない(と思う)。なお、これをブッシュや金正日に教えてやりたいとも思う。ただ、私は、音楽を理解するためにこの本を読んでいるので気が楽だ(つまり「悩んでいない」ということ。済みません)。
○ウエーバーには、第一次世界大戦の制度化された科学と技術の応用(つまり、総力戦による過剰殺戮)を見て-知っての通り歴史はさらに繰り返すが、ニヒリズムへの転落に対する最後の塁(とりで)として、学問的な理性の立脚点を死守しようとする孤立の影が宿っている。
○そして、ウェーバーというか姜 尚中さんは、「プロテスタンティズムの論理と資本主義の精神」の末尾をかざる幸福を見出した「最後の人々(未人)」は「現代アメリカ」にふさわしいと言っている。
○20世紀の最大の社会科学者と呼ばれるのは、ウェーバーが20世紀で生きたのは最初の20年に過ぎないにもかかわらず、新世紀のグローバル化した「後期近代」の強制合理化の病理に悩み続けていたから(というのが、姜 さんの評価)。
○ウェーバーが突出しているのは、「耐えがたい存在基盤から突然ベールを剥ぎ落とし、それを究極的な明知として意識化すべく強要する特定の状況」を自覚し、それを形而上学上のジャルゴンでなく、神学的なイデオロギーでもなく、経験的な歴史(=社会学)の研究を通じて明らかにしようとしたことである。これが宗教社会学として結実した。

え~と、覚書が「序論」で終わってしまった。マックスウェーバーの言葉は、第1章以降で、さらに面白くなる。それで、その2あります。
なお、あのベストセラー「悩む力」(私は読んでいない)は、このウェーバーを念頭に置いてい書いているのではないか。そろそろブックOFFで100円で売っていたら買って読んでみようかと。

●ヘンデル/シャコンヌ

この曲を聞くと、高校時代と大学時代が懐かしくよみがえる。特にゲタで電車通学していた高校時代の、具の無い"素そば"と具の無い"素カレー"を出していた暗い食堂の前の部室を思い出す。最初に、プレスティ&ラゴヤのギター二重奏をLPで聞いた時、私はスペイン物よりこちらのほうに感動した(かなりの人はファリャやグラナドスのピアノ曲の編曲に感動したようだ)。その後、だいぶ時間がたって、CDの時代になり山野楽器のCD3枚組復刻盤を購入したが、それを聞いて、その昔の感動が(急速に)色褪せたのを思い出す。その感覚はわたしの身近な人も同じなので、正しいと思う(くやしいが音感は私より多少良いので、一目おいています)。やはり、CDだと、その音域の制限のせいかなんかが違う。
  ★
U-tubeではプレスティ&ラゴヤのこの演奏は公開されていないようなので、ピアノの演奏を貼り付けておきます。この曲は、同時代ながらバッハやテレマンとは違った華麗さと憂いがある。なお、このU-tubeのマレイ・ペライア(1947年-)の演奏も素晴らしい。ただ、ちょっと物足りない気もする。これはなんだろうか、プレスティの神がかり的な演奏のイメージが残っているせいかもしれない・・・。今度、ハープシコードのさらに華麗な演奏を聞いてみたい。

・・・ということで。