介護で仕事をやめ郷里に戻った義理の弟などに仕送りをしている。それやこれやで、小遣いは食費を除くとおそらく平均的サラリーマンのこずかいより少ない。それで、お金よりドキドキというか、しみったれの生活をしている。ただ、仕送りしてもまずまずの生活ができるだけ(かなり)めぐまれた方と思っている。それやこれやでボーナス時のささやかな臨時収入は有難い。そのお金の一部を何回か貯めてスパーオーデイオプレイヤーを購入した。今のところこの形式のCD(ハイブリッドCD)は下記4枚です。

●バッハ:クリスマス・オラトリオ(全曲)/アーノンクール西部戦線異状なし-クリスマス
●J.S. バッハ:カンタータ全集 Vol.36/BCJ
●ポピュラー・スパニッシュ・ギター/J.ブリューム
●無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ(全曲)/山下和仁
まず、これらのCDから聞いて、また、すこしずつSACDを購入していこうと思いますが、SACDは自宅でしか聞けない(いまのところ録音できない)ので、ボーナス毎に買う程度で良いかもしれない。その中で、今までつまらないと思っていたCDを見直すこともあると思う。なお、SACDの感想ですが、あるブログをみて(全く)同感したのを引用しておきます(このような表現は、私にはできないので勝手に引用しました)。

SACDは音の出方が自然でノーマルCDはエッジの利いたシャープな音だ。・・・。ヘッドホンで聴いてみるとノーマルCDの時は思わずボリュームを絞りたくなる。反面、SACDはもっとディテールまで聴いてやろうとボリュームを上げたくなるような。SACDってアナログっぽい音だなぁ、というのが実感です。・・・。いわゆる聴き疲れしない音といったら良いのでしょうか。デジタル録音というのを忘れてしまうような音でした。こりゃあSACDにハマってしまいそうや。

で、首記の話。

●アドルノ/マーティン ジェイ/(岩波現代文庫西部戦線異状なし-adoruno
おそらく私はアドルノ(1903年-1969年)を本当に理解することはないだろう。なんせ、バックグラウンドが違うし、彼の論文は安易な理解を拒否している。そんな私でも、相対化が極度に進んだ現代の価値観からみて、たった数十年前の時代の評論がゆえに(化石を見るような)違和感を感じるところもある。ただ、その中に、捨てがたい鋭さがあり、読む前と読んだ後では同じではいられないような何かがある。そのような断片を抜き書きで書いてみよう。以下、この本で引用されている原文です(引用の引用)。

「芸術は、その最高の高まりにあってさえ仮象にすぎない。しかし、芸術はおのれの不可抗力であるこの仮象を、仮象ならざるものから受け取る。・・・。芸術は、それがニヒリズム的だと非難されるばあいにはそれだけいっそう、必ずしもすべてが無にすぎないわけではないことを告げている。・・・。代替可能な交換世界の対する抵抗のなかでも根絶しがたいのは、世界の多彩さが失われることを望まない眼の示す抵抗であろう。仮象のうちには、仮象ならざるものが約束されている。」(第1章「ある傷ついた生活」より)

「物質的現実が交換価値の世界と呼ばれ、一方、こうした世界の支配の受け入れを拒否するものこそが文化と呼ばれるものであるが、そうした拒否は、現状の続くかぎりでは、たしかに見かけだけのものでしかあるまい。しかし、自由で公正な交換ということからしてすでに虚偽なのだとしたら、交換を否定するものは、同時に真理に与することにもなろう。つまり、商品世界の虚偽の前では、それを告発する虚偽(文化)でさえ矯正手段になる。」(第4章「操作としての文化、救済としての文化」より)
そして、アドルノの称賛する芸術作品と非難する芸術作品の分離ラインを、ほかでもない、その作品が前記の問題点においていかなる位置を占めているかによって定める(この本の著者の記述)。

芸術作品の社会に対する関係は、ライプニッツのモナドに例えることができる。芸術作品、とくに概念に縁遠い音楽作品が、窓を持たないにもかかわらず-つまり、社会を意識せず、そうした意識をつねに必然的に持っているとは限らないのに、社会を表現するものである。音楽はそれが、それが社会に秋波を送ることが少なければ少ないほど、かえって社会をいっそう深く反映する。(第4章「操作としての文化、救済としての文化」より)

これらのアドルノの言葉引用しても、これだけ読むと「簡単なことをやたら難しく言っているに過ぎない」という印象を持つ。だから、アドルノの本を、丹念に読まないと(その背景が)理解できないことになるし、アドルノはそれを嫌ったのだろう。そして、これが、このような解説書だけで理解しようとすることのの限界なのかもしれない(つまり、原本を読んでこそ解説書が意味を持つ)。

●F尺度
ついでに、HPで偶然見つけたアドルノのFスケール(ファシズム度)テストをやってみた。
下記のような(旧時代的)分類がなされている。
1.00点 ポポロ階級(男性)
3.49点 都市住民(女性)
3.51点 女子大生
3.62点 中産階級(女性)
3.68点 都市住民(男性)
3.69点 中産階級(男性)
3.73点 囚人(男性)
3.74点 服役軍人
3.84点 一般人の平均
3.86点 労働者階級(女性)
4.06点 理系大学生
4.08点 社会奉仕団体(男性)
4.19点 労働者階級(男性)
6.00点 神族院議員

おそらくこの数値は、すでに現代のものではないと思うが、私は「ポポロ階級」と「都市住民(女性)」の中間でした。現代人であれば、F尺度の高得点は取れないと思いますが、如何でしょうか。気になるのは、当時(いつかは不明)一般人の平均がかなり「高得点」であるのが気になる。

・・・ということで。