バッハとその時代を(適当に)理解しよう、定年になってからでは(エネルギーが続かず)やる気がしないような基礎的なところを今から準備しておけば、老後を(多少でも)面白おかしく過ごすことができるのではないかと信じ迷走しています。おかげで、ニーチェ(1844年-1900年)-マックスウェーバー(1864年-1920年)-ベンヤミン(1892年-1940年)-アドルノ(1903年-1969年)の系譜を(勝手な解釈ながら)なぞることができた。ほんとうは何も理解していない訳ですが、その理解の不完全さをすこしずつ埋める作業も楽しいと思っている。
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さて、これらの人々は、われわれに何を残したのか?「何も新しい観点を示していない」とか「壮大な失敗」という評価さえある。しかしながら、ナチスドイツ(及びソビエト共産主義)の崩壊の後、誰もイデオロギーなど信じなくなり、価値の相対化と複雑化の中で、(芸術の)方向を見失ってしまったような現代において、これらの人々の(現代から見ると時代錯誤の)化石のような著作の中、(ある意味新鮮な)批判的精神を知ることができる。そのアプローチは、余計なものを切り捨て本質を恣意的に選び取るような単純化ではなく、余計なもの、矛盾点、対立そのものを分析の対象にして、何度も同じところを通り過ぎながら、その多様な面を断片的な考察でつなげながら、輪郭全体をなぞっていく。私はその世界に不思議な魅力とノスタルジーを感じる。
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西部戦線異状なし-レオンハルトなお、いま聞いているのは、レオンハルトのこのCDです。収録曲は下記。
○BWV903:半音階的幻想曲とフーガd-moll
○BWV992:カプリッチョb-dur
「最愛の兄の旅立ちによせて」
○BWV904:幻想曲とフーガa-moll
○BWV906:リュートのための組曲e-moll」

これらは、どちらかと言えばバッハの初期の作品のようだ。いずれの曲も私の耳には心地よい。なお、このCDのライナーノートでは、BWV996はまだ「真作かどうか疑問をもたれている」と書いてある。これが他の人の作曲となると、私にとっては思い入れがるだけ、困ったことになる。

で、首記の話です。

●アドルノとベンヤミン
ベンヤミンとアドルノは伝統的な芸術の凋落を同様に感じていたが、アドルノはすべての芸術に対して孤高の批判的立場に立つ。一方、ベンヤミンは新しい”映像芸術”にある種の期待を持っていた。ベンヤミンは、写真や映画のなかに、従来の芸術にない大衆性と社会批判力にアウラ無き「複製の」時代の芸術の可能性を見出したようだ。一方、アドルノは、その大衆化された芸術への楽観的期待を「甘い」と批判する。両者の違いは、スタンスというかウェイトの違いに過ぎないのか、または歴史観とか社会観というか基本的認識の違いなのだろうか。このところ、かなり興味があるが、私のわずかな知識ではとても判断できない。
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アドルノは、映画の再現的迫真性、映像と音響の力強い統一といったものに警戒心を持っており、文化産業に飲み込まれた大衆文化を蔑視していた(ここらは反感を感じる方も多いだろう。当時もかなり批判されたようだ。)。芸術と現代的生活とのあいだの距離を縮めることは、アドルノが捜し求めていた救済とは正反対だった(らしい)。では、アドルノが求めていたものはなんだろうか。私にはこれがわからないが、なんとなくわかるような気もする。
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なお、この大衆の芸術の受容に対する議論は17世紀に遡る。モンテーニュ(1533年-1592年、ルネサンス期のフランスを代表する哲学者)。とパスカル(1623年-1662年)の著作の中に、最初の論争が展開されていると「アドルノ」(岩波現代文庫)の著者は言っている。モンテーニュは、大衆が「気晴らし」の果たす健康上の役割、庶民がますます増大する社会的抑圧に適用することを可能とする役割を擁護した。これは、(当然ながら)正しいし、あまりに妥当すぎる(平凡な)判断と思う。一方、魂の救済を人間の最高の状態としたパスカルは、大衆の娯楽を、現実逃避で文化の品位を傷つけるものとして侮蔑した。アドルノは、さすがに「魂の救済を人間の最高の状態」とは考えていなかったが、大衆文化を「上から冷笑的に押し付けられた全く作為的なでっちあげ」と侮蔑しており、その立場はパスカルに近い。
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なお、ベンヤミンは、(どちらかといえば)マルクス主義の立場で、大衆の文化の受容形態(気晴らし)を容認する。彼は、大衆の文化の受容は「慣れ」だといっている。たとえば、「建築物は作られたときには、その芸術は完成されていない」という。それは、人々に使われ慣れるという繰り返しの受容により、その芸術というか文化が完成するという。ここらはモンテーニュよりは、鋭い視点で「芸術」を見ているように思われる。そうすると、アドルノとベンヤミンは、やはり基本的認識が違っていたかもしれないし、ベンヤミンが最後までヨーロッパに留まった理由に繋がるのかもしれない。

●最近購入した本
●イエス・キリストの言葉―福音書のメッセージを読み解く/ 荒井 献 /岩波現代文庫
西部戦線異状なし-aaaバッハの宗教曲をそれなりに理解するためにといっても、あの膨大な聖書を読むのはつらい。やはり聖書は「信者」の方が読む本だ。それで、例の如く"(とりあえず)解説書”というのが私のアプローチです。実は、先に読んだ「聖書時代史(新約編)」を買ったときに、セットで読もうと考えていました。この本は、キリスト教でない読者にも「古典」として読めるように「イエスの言葉をそれぞれの福音書を書いた記述者の立場や時代背景にそって読み解き、現代に生きる読者にどのようなメッセージを投げかけているかを探る」本らしい。
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この本を読んだらキリスト教を知ることができるのだろうか・・・。おそらく、そんなことはないだろう。それゆえに、私にとってバッハの音楽は永遠に謎の存在なのかもしれない。大学時代、私のサークルに「キリスト教徒」の後輩が入ってきたときの「異邦人」のような感覚。それが、私のバッハ体験につながる。

・・・ということで。