いきあたりばったりで、音楽関係の本を読んでいます。その流れで、とにもかくにも、ある程度キリスト教を知らないと西洋音楽や西洋の文化を理解できないと思い、啓蒙書は避けつつ、キリスト教の本をいろいろ読んでいるなかグノーシス派について興味を持ち、首記の本を読みました。

●グノーシス-古代キリスト教の異端思想/講談社選書メチエ$西部戦線異状なし-guno-shisu
一般論ですが、(付け焼刃の知識であっても)キリスト教の理解は、西洋音楽、文化、思想の理解を面白くする。これホントです(必須と言ってもよい)。この本でグノーシス派のことを知って、カルバン派の「予定調和」というような過激な「絶対他力」の”正統”キリスト教に対し、キリストを知的に理解し、その先に救済をみるといいう「自力」のアプローチの動きが紀元1~2世紀頃にあった。その「異端」と「正統多数派」の論争の結果として、新約聖書の編纂されたというのがこの本でわかる。なお、この本は、著者(筒井賢治)の考えと本で挙げられている資料の論点と区別ができないところが多い。結局、筒井さんの(独断的)解釈がすべての本のような気もする。そこをもう少し明確にしてほしかった。
以下に覚書をすこし。

●グノーシスの基本は、神の二元論
(先週のブログと同じことを以下に記す)
キリストが宣教した神(至高神)とユダヤ教の神(創造神)は別だと説く。創造神が作ったこの世界は唾棄すべき低質なもの。人間もまた創造神の作品なのだから高尚なはずもない。救済とは、この唾棄すべき世界から解き放たれて至高神のもとに戻る」というもの。というか、ユダヤ教の創造神を悪魔視するような考えのようだ。当時のローマ帝国の圧制下では、そういう現世理解もあるかもしれない。
●少し音楽の話
トイレで毎日すこしづつ吉田さんの本「世界の指揮者」を読んでいます。1970年代に書かれたこの本では、彼はマタイ受難曲を3回しか聞いていないと言っている。それでも、バッハの(というか西洋音楽の)最高作品としてマタイ受難曲を挙げている。わたしも一般論ではそうなんだろうと思いますが、異教徒がこの曲を最高に挙げるのは少し変だ。バッハが信じた神に、シャーマニズム的敬意を表するか、または、グノーシス的にバッハの神を理解するか、そうでもしないと共感できない。実際、私はこの曲を通してきいたことは一度も無いし、CDだと途中で気が散ってしまう(というか、途中でおなかがすいてくる)。それで、いつもは抜粋版のCDを聞いている。吉田さんはカール・リヒターのマタイがすばらしいと言っていた。さて、最近の録音では何が良いのだろう。
●本の構成
第1章 紀元二世紀という時代
第2章 ウァレンティノス派
第3章 バシレイデース
バシレイデース(紀元85頃~145年頃)のグノーシス派の教師。
否定神学」というのがある。「神は~である」と定義する肯定神学に対し、「神は~でない」と否定表現でのみ神を語るのが否定神学。たとえば、「神は善でもなく、悪でもない」といった言い方で、すべてを超越するものであることを強調する論理。バシレイデースは「はじめは何も無いときがあった」「なにもない神が無から(世界を)創った」と言った。旧約聖書の「創世記」にも同様なことが書いてあるが「全能なる神がなんでもお造りになった」といった全能の神を強調する程度の話だったのを、ギリシアのプラトン哲学と結びつけて、存在論に通じる学問的な厳密な論文を書いた。
  ★
なお、これらの異端派の歴史は資料が乏しく、勝利者の側の正統キリスト教側の「全異端反駁書」に書かれているので注意が必要。バシレイデース派の言葉として、「十字架を担いだのは(キリストではなく)シモン」で、「キリストは貼り付け場に行く途中で肉体を入れ替わり、キリストはシモンの肉体で、十字架を担ぐキリストを笑う群集を逆に笑っていた」というのもある。これは、肉体と精神のあり方(存在論)の通俗化された表現と思われるが、これはこれで考えさせられる。
なお、このシモンはキリストと同時代の魔術師シモンのことで、何度も輪廻転生を繰り返したとされ、ファウストの伝説の元祖らしい。実はこのような世界が、私の興味があるところなのですが、この本はまじめな本なので、そこらは淡々と書いていて面白くない。
第4章 マルキオン
マルキオン(紀元100年頃-160年頃)はローマで活躍した小アジア(現トルコ)出身のキリスト教徒。著者は、彼をグノーシス派に入れているが、一般には彼の一派は異端ではあるが、教義が異なるのでグノーシス派ではない。そうなるとこの本のタイトルが気になる・・・。
  ★
「マルキオン聖書」というのがある。これは新約聖書の前に編纂され、これがきっかけで新約聖書が編纂された。「マルキオン聖書」は、いろいろな福音書から、ユダヤ教的なところを取り除き、純粋に(ほんとうはマルキオン解釈的)キリストの聖書を造ろうとした。其の一方、正統多数派は、伝承された資料を矛盾のまま、すべて丸呑みしたということのようだ。
・・・ここ後で追記(と思いましたが、気が向いたらということで)。
第5章 グノーシスの歴史
第6章 結びと展望
グノーシス派は、正統多数派から「創造神を悪魔視するグノーシス主義者はさっさと自殺して、とっとと故郷に帰れ」と挑発されていた。ただ、グノーシス派の集団自殺といった話は全く伝わっていない(ようだ)。どちらかと言えば、グノーシス派のアプローチはその「グノーシス」の語源に近く、知的に神を認識しようというもので、「『人はまず死に、それから(終末において神の救済により)よみがえる』というのは間違っている。人は生きているうちに復活を受けなければ、死んだときになにも受けないだろう」と言っている。すなわち、生きているうちに自己の存在を認識する必要があるという主張で、これが何で「異端」なのだろうかと思うが、多数派を統率するのは「知」ではないということかもしれない。

・・・付け焼刃ながら、私にとってはそれなりに役に立つ。
出かけるので、帰ってから少し追記しようかと。