良いとか悪いとか判断するのは人 | 沈黙こそロゴスなり

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今日のキーワードはなぜか『中間次元』もしくは『中間世界』。
この世界と高次元の中間。むう~

今日は天気もよく気温が高かったので、Tシャツ短パンで、デッキブラシもってウッドデッキのお掃除~。
おもいきり日焼けしました~。


さて、

そもそも判断するということも、人類の歴史の上では比較的新しい習慣なのです。
判断するという行為は、物々交換によるビジネスが始まり、貨幣経済がもたらされるにしたがって磨かれてきたスキルです。
つまりビジネスの手段として編み出された思考スキルです。

それまでの人類は直感にしたがって生きてきました。直感というのは、なにやら非科学的なニュアンスで語られることが多かったものですが、ここへきて、最近の脳の研究から、主に右脳が五感から入ってくる膨大な情報を、非言語的処理により整査した上で出す答えであることが明らかになってきました。

人間はもともとこの直感能力を用いて、事前に危険を察知したり、安全かそうでない食べ物を見分けたりすることができたのです。

それは言語的な思考よりももっと基本的な脳の機能ですから、思考による判断は必要ありませんでした。


ところが文明の発達とそれに伴う言語の発達、そして都市文明の誕生にしたがって、所有という概念がうまれてきました。
そして、それらをやり取りする方法としてビジネスが考案され、貨幣が導入されるようになると、現物なしの信用取引などが行われるようにもなったため、価値観とそれを判断するスキルが必要となったのです。

つまり、良い悪いの判断はビジネスの発展による資本主義の産物とも言えるでしょう。


問題は、その判断スキルや基準が、商品のみならず、物品を扱う人にまで適用されるようになったことから、一般的な対人関係にまで広範囲に適用されるようになってしまったことにあります。
貨幣経済は信用取引で成り立っているわけですから、信用できない相手との取引のリスクは高くなるのは当然です。
このように人間を判断する必要に迫られた結果ではあるのですが、これが一般的な人間関係にまで持ち込まれると話がややこしくなってくるのです。

社会に対して益になる人間=良い人
社会に対して益にならないことをする人=悪い人

といった判断の例をみてわかるように、判断というのは基本的に相対的な損得を基準としているのがわかります。資本主義的善悪なんですね。

だから経済がからむことで、善悪の判断が2転3転するのはそのせいですし、正義という判断も同じです。

判断するという行為そのものに、ビジネス的要素が基本にあるというわけなのです。


直感によって判断するときは、このようなビジネス思考を完全に外してしまうことを意味します。
損得でもなく、善悪でもない、ただ、信頼できるか出来ないかというレベルです。
この時、人は相手に対してはじめてニュートラル(中立的)な立場で、相対することが可能となるのではないでしょうか。


ニュートラルに相手を見る。つまり判断を手放し、そのままの相手を見る。人を愛するということは、そこから始まるのではないかと思います。