赤ジソとエピキュリアン | ゆばー*短歌* ≪Ecoute! Ecoute! C'est Ondine≫

赤ジソとエピキュリアン

赤ジソを塩でもんで灰汁ぬきをして、無事、梅干しの壺に入りました。
土用干しまで、梅仕事は一息。

わたしはエピキュリアンなので、自分の楽しみのためには手を抜きませんけれど、
つい最近、職場の干支が一回り年下の男子に「余裕がある人とない人では話が合わない」と言われたばかりで、
ちょっと考えています。

エピキュリアン、日本語の訳は「快楽主義者」。
でも本意はだいぶ違って、快楽を求めるのではなく、
快楽を妨げるものから逃れるのが、正しいエピキュリアンです。
快楽を妨げるものは、苦痛と不安。
よって、それらが生じないよう「慎重さ」が求められる、と書いてあります。

たとえばね、日常の小さなことでも、お漬物を漬けるのに、プラスチックの容器を使ったら、
毎回見るたびに嫌だなと小さく思うのでしょう。
だったら、「安く買えた」という快楽は、慎重に排すべきだと思うのです。
その喜びは長く続かないし、その後何年も、嫌だな、嫌いだな、と思わないといけないのです。

嫌な物でも一つのモノです。モノの存在というのは考える以上に大きくて、
生活があっという間に、そのモノが生きる環境になっていく。

おんなじことで、代用品ばっかり食べている人から見たら、
いろんなものを手作りする人は余裕がある、と思えるのかもしれませんけれど、
わたしにとっては、むしろ、「嫌なモノたちの環境に身を置くくらいなら、不便な方がまし」
という事から始めて、「ないものはない」という諦めから、慎重に、少しずつ、前に進んだ結果です。

本当は嫌いなものばっかりに囲まれている人に足りないのは、余裕ではなくて、
自分の生を脅かしうるものに対する「慎重さ」だと思う。

柚 葉