セミ。~Last program of a series~ | 明け行く空に…。  ~ひねもすひとり?~

セミ。~Last program of a series~

街を歩くと木々の葉は力強く、そして青々と茂りその存在を主張していた。俺は昨晩オフィスに一人残り徹夜で完成させた会議資料を小脇に抱えて、取引先が営業所を構えるオフィス街の高層ビルへ向かって歩いていた。今週中に届けてくれればよいという先方の言葉に甘え、その作成を先延ばしにしまくっていたら締め切りは明日に迫っていて、仕方なく残業覚悟で資料と向き合ったのだが、結局完成したのが明け方の5時近くだったので、その日の帰宅はあきらめて来客用のソファーで仮眠を取った。慣れない格好で眠った為かどうか分からないが、何だか体が軋んでいたので、俺は一度歩みを止めて大きく背伸びをした。
そういえば今回の仕事から先方の担当が換わるらしいと言う上司の言葉を思い出し、初対面の方へ失礼がないようにと、俺はショーウインドーに映る姿から寝癖が付いていないか、そして着衣に乱れがないかと、身だしなみを確認しながら先を急いだ。もう一度背伸びをしようと両手を広げて空を見上げると、不規則に伸びた枝や青い葉の隙間を縫って強い太陽の日が差し込んできて一瞬目が眩んだ。まだ梅雨明けの宣言を耳にしてはいないけれど、既に日差しは真夏のそれと遜色がない程の眩しさと力強さを孕んでいるようだ。
通勤ラッシュに揉まれ渋滞する車から発せられるエンジン音、そして雑踏から溢れ出す騒音に混じり、遠くのほうからセミの鳴く声が聞こえる。
どうやらまた、暑い季節がやってきたみたいだ…。


訪問先のオフィスビルは俺の会社から歩いて15分くらいのところにある。通常であれば徒歩で向かってもそれほど苦にならない距離ではあるが、初夏の朝ということで油断していたのがいけなかったのだろう、既に気温は急激に上昇し、会社を出てから10分くらい歩いた頃には背中がじっとりと汗ばんできた。ただでさえ昨夜は会社に泊まりこんで仕事をしたので、着替えをすることができなかったということもあり、その不快感は筆舌に尽くしがたいものがあり、俺は車で来なかったことを大いに後悔していた。額の汗を拭いながら次の角を曲がると、そこに目的のビルが見える。よかったもう少しで到着だ。
ふと、訪問先である地上30階を越える高さのそのビルを見上げると、その天辺から黒い点が地面に向かって落下していくのが見えた。何だろう、この光景と似たような場面に最近一度遭遇しているような気がする。記憶を辿ってみるとそれが何なのか直ぐ様分かった。
あぁ、先週の日曜日に見た光景と似てるんだ…。


2、3日前から日本列島を襲った台風は、今朝までその余韻を残すように大粒の雨を降らせてはいたが、それもお昼前にはからっと上がり、それと同時に気温も一気に上昇してきたようだ。本当は昼過ぎまで惰眠を貪るつもりでいたのに、あまりの暑さと湿度の不快感に耐え切れなくなり、蒸しだされるようにして寝床から這い出してきたって所だ。


茹だるほどの暑さを感じる休日の午後、俺は縁側に腰を下ろし、木陰を忍び足で通り抜けた時に、本来の穏やかさを思い出した様に熱を失った夏の風を火照った体に浴びながら、ふと思い出したかのように読みかけの小説など捲ってみる。傍らにはうまくバランスを保ちながら浮かぶ氷が2つ3つ入った麦茶なんぞ置いてあって、グラスを持ち上げた時にカラカラと涼しげな音を奏でる。汗ばんだ体が時に悲鳴を上げることもあるが、何だかんだと言いながら、俺はそんな夏の何気ない一時が好きだったりする。
暑さに耐えながらこれと言って目的もなくただぼぉーっと過ごす。そんな時間の流れは思いの外心地よくて、そんな時は何故か暑ければ暑いほど良かったりする。
また、じりじりと焼けるような日差しが焦がす、土やアスファルト、草木の香りはどこか懐かしく、時に少年の頃の暑かった日を彷彿させてくれたりもする。
きっと夏が好きなんだと思う…。
 
夏の到来をなんとなく感じながら、読んでいた本の最後のページを捲り終えると同時に、目の前をトンボの群れが横切っていくのに気が付いた。トンボはアスファルトから立ち込める水蒸気が作り出した透明のカーテンの合間を縫うように、ゆっくりと羽ばたきながら我が家の庭先を右から左、そして左から右と自由に飛び回っている。
夏の終りから秋だって、俺の頭の中で勝手に相場が決められている彼らの到来は、何だか季節感を狂わせてくれるなぁと思いつつも、庭先の草木にその体を委ねながら正に羽を伸ばす彼らの姿をぼんやり眺めていると、頭の中に幼い頃の記憶が蘇ってくるのに気が付き、俺はくわえ煙草で紫煙を燻らせながら、その記憶をゆっくりと辿ってみた…。


ランニングシャツに麦藁帽子をかぶった幼い頃の自分が、虫取り網を片手に微笑んでいる。どうやら1匹のトンボに狙いを絞って捕まえようとしているみたいだ。トンボってヤツはコツさえ掴めば思いの外簡単に、それこそ素手でも捕まえられた。気配を殺しながらそぉっと近づき、指先で優しく羽をつまむ。記憶の中の少年は難なく1匹のトンボを捕まえ自慢げに友達に見せていた。
今思えば可哀想な行為ではあるのだが、そうやって次々に捕まえられたトンボは狭い虫かごの中に押し込まれ、そして彼らの一生はそこで終える。子供ってのは時にとても残酷な生き物だ。でも、そうやって命の尊さ、重さみたいなものを学んでいくのだろう。
少年は同じようにセミの捕獲にも挑戦しているようだ。だが、今度はトンボの時のように簡単にはいかないらしく、何度も何度も虫取り網を振り回してはその後を追っている。セミの注意力っていうか、危険察知能力っていうのか良く分からないが、とにかくトンボのそれとは比較にならないくらい鋭くて、なかなか思うように接近を許してはくれないし、ましてその体に触れることさえ至難の技だった。


あの頃少年には孝という名の1歳年上の友達がいて、学校が終わるといつも一緒に虫取りなどをして遊んでいた。孝は虫取りの名人で、その手にかかれば俊敏なセミと言えども難なく捕まってしまうほどだった。少年の目にはそんな孝の姿がとても羨ましく見えていて、そのこつを教えてもらったり、技術を盗もうとして彼の動きをじっと見つめたりしていたけど、結局素手で捕まえた記憶が少年の脳裏に刻まれることはなかったように思う。


「そんなさぁ、捕まえるぞーって顔しながら近づいたってだめだよ。俺がセミだったら絶対にお前には捕まらないよ。」


捕まえたくてしょうがないって思いが殺気立たせているんだろうか、少年はいつも強張った顔でセミに近づいて行

き、結果逃げられてばかりいた。


「じゃあさ、どうすれば孝君みたいにうまく捕まえられるのさ?」


そんな少年の質問に対して孝は笑って答えた。


「へへへっ、分かんない。あんまり考えたことないからなぁ。そもそも何も考えていないと思うんだけどな。」


俺は揉み消した煙草の代わりに手に取った麦茶をすすりながら、そんな幼い頃の記憶を蘇らせていた。
孝とは家も近所だったこともあり、中学生の頃までは仲良くしていたが、学年が1つ違ったことや、その後それぞれ別の高校に進んだことから徐々に疎遠となり、今では彼がどこで何をしているのかも分からなくなっていた。噂で耳にした話によると、高校卒業と同時に東京の大学へ進学し、今では地元に戻り就職したという話しではあるが、その真意は定かではない。
機会があったら、久しぶりに会ってみたいものだ…。


そんなことを考えながら遠くをぼんやり見つめていると、青い空の彼方からひとつの黒い点がこちらに向かって近づいてくるのが見えた。だんだん大きくなっていく点は、ジジジと乾いた歌声を轟かせているのが分かり、そして俺の足元にふわりと舞い降りると同時に歌声も消えた。セミだった。


どのくらいの時間が経過しただろうか。
オレは気配を殺しながら、目の前に舞い降りた黒い点を見つめていた。
捕まえようと思った訳ではないけれど、あの時孝が言ったように何も考えずに、頭の中を空っぽにして見つめた。
そして俺は思った。

全くこちらの存在に気が付いていない様子のセミ、今ならばあの頃触ることさえできなかったその体に触れることが出来るかもしれない。あの頃の自分より、良いことも悪いことも比較にならないくらいに経験を積んだ今の俺なら、何だか触れられる気がした。

全くその場から飛び立とうとしない黒い点。
俺はそっと手を伸ばしてみる。
だけどまもなくその体に届きそうになった時、俺は思わず躊躇した。何だかこいつに触れてはいけないような衝動に駆られたのだ。 引っ込められたその手に、近くに無造作に置かれていた携帯電話を掴みカメラを起動してみる。接写モードに切り替え、至近距離まで接近しシャッターを切った。
それでもその場から離れようしない被写体からは、既にその場から飛び立とうという意志は微塵も感じられなかった。
ほんの数日間という短い命を全うしたセミは、どうやらここを死に場所に選択したみたいだった。
かごの中に押し込まれるでもなく、外敵の血肉となるでもない。その短い生涯を俺の目の前で終えようとしているセミ。 何を思い、そして誰にその意志を伝えようとしているのかなんて分かりはしないし、きっと彼自身そんなことなどどうでも良くて、ただ静かにこの場で一生を終えようとしているだけだったのかもしれない。




ビルの天辺から落下していく黒い点を見つめながら、そんな休日のひと時を思い返していた。
程なくして点は地面に到達し、それから数秒後に悲鳴のような声が聞こえてくる。誰かが飛び降りたに違いないと容易に想像がついたので、出来ることならば悲惨極まりないであろうその光景は目にしたくないと思い、その場を避けて通りたかったのだが、手に持っている書類を届けなければならない場所は正にそのビルの中にあるので、俺は渋々一度は止めた足をまた進めることにした。
取引先の営業所の入り口となるビルの正面玄関前には、どこからともなく集まった人々により既に群集が出来ていて、辺りは騒然としていた。30階を越える高層ビルから飛び降りたのだから、間違っても助かることはないであろうことは火を見るより明らかではあったが、通行人の一人が救急車を呼んだらしく、遠くの方からサイレンの音が近づいてくるのが分かった。徐々に増える人だかりを離れた場所から眺めていたが、何だか妙に胸騒ぎがしたので、俺は背伸びをしたりしながら輪の中を覗こうと試みるが、あまりに人が多くそれも出来そうにないと思い、まだ取引先との約束の時間までは間があったが、あきらめてビルの中に入ろうと諦めかけていたら、救急車のサイレンの音が真後ろまで迫ってきているのが分かり、程なくして到着した車の中から救急隊が駆け出してきたのと同時に、群集の輪が左右に分かれて人だかりの中心の光景が目の中に飛び込んできた。人通りが多い朝の通勤時間であるにも関わらず、幸い誰かを巻き込んだような形跡はなく、そこに横たわっていたのは1人の男だけであるのが分かる。何故か不自然に足から着地したらしく、飛び降りによる影響は下半身に集中しているようで、顔にはほとんど損傷がないように見える。救急車に続いてパトカーも到着し、今度は警察官が群集の輪を切り裂いて現場へと入って行く。
男は救急隊の手で担架に乗せられて救急車へと担ぎ込まれ、程なくして走り出した車から発せられるサイレンの音は徐々に雑踏の中へと消えていった。

群集の中に横たわる男の姿は、まるで先日我が家の縁側で見たセミのようだった。ふわりって訳にはいかなかったようだが、高層ビルの足元に舞い降りたその体は、もう二度と自らの意思でその場から離れることはなくなった。
そういえば子供の頃、孝がこんなことを言っていた事を思い出す。


「いつかセミみたいに自由に空を飛んでみたい。」


そんな言葉に対して俺は、いつだって目的地に向かって真っ直ぐに飛ぶセミよりも、もっと自由に空に浮かんでいるトンボの方がいいなと言っていたことも思い出した。どんなに頑張ってもセミを捕まえられなかったことに対する負け惜しみだったと言うことも一緒に。


気が付くと大勢の警察官が既に集まっていて、現場検証のためだろうか、黄色いロープを使って男の着地地点を囲い始めると同時に、目撃者を求めて近くにいる群衆に対して無作為に職務質問を開始しているようだった。ふと見ると道路向かいのビルに設置されている電光掲示板に午前9時を示すメッセージが流れるのが目に付き、それと一緒にどこからかチャイムの音が聞こえてきた。まもなく約束の時間だったので、俺は警察官に声をかけられると面倒だと思い、その前にビルの中に入ろうと振り返りその場を離れた。
ビルの正面入り口付近に止められているパトカーの一台から、無線の声かすかに聞こえてきた。


「飛び降りたのは高橋孝30歳、現場となったビルの12階に所在する企業に勤務。搬送先の病院で死亡確認。」


そうか、妙な胸騒ぎの原因はこれだったのか。
このビルの12階と言えば、今正に俺が向かっている場所だ。もしかしたら新しい担当者というのは彼のことであったのかもしれないなと思い、あと数日早く資料を完成させて訪れていたら、もしかしたら感動の再会となったかも知れないなと想像しながら、俺は額を流れる落ちる汗をハンカチで拭い、ビルの中へと足を向けた。


見上げると太陽の日差しが眩しく、会社を出るときよりもセミの鳴く声ははっきり聞こえるようになっていた。




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