ラン&ガン。
「先輩、俺走りには自信があるんです。任せてくださいっ!」
ザキは声を大にしてそう言うと、オレから書類を奪うようにして受け取り、車から飛び降りて走った。
ザキはこの春の新卒採用でオレの下にやって来た新入社員だ。
言うまでもなく不況と呼ばれるこのご時世、わが社も大卒若干名、高卒若干名の募集をしたのだが、驚くほどの応募があった。
人事部は入社試験に未だかつてない超難問を用意した。
オレもチラっと眺めたが、自分が今年入社試験を受ける身ではないことに感謝するほどに難しい問題のオンパレードだった。
会社側は名目上、高卒も入社試験の対象としていたが、実際は大卒の受験者の中から成績優秀な者を数名採用しようとしていたのは、高卒者にも大卒者にも同じ問題を課した時点で明らかだった。
たまたま受験者の履歴書を眺める機会があったのだが、そこに書かれた学歴にオレはため息を幾度もついた。
国立大卒はもちろんのこと、有名超一流私大を卒業した者たちが多くいた。
不況の波は、オレみたいなヘドロ野郎が在籍する企業にまで一流大学卒の学生を送り込むのかと思うと、またため息が出た。
結局、5名の採用が決まった。
そして、その中にいたのが唯一の高卒であるザキだった。
新人がオレの下に来る。
そう言われ人事部長からオレは呼び出される。
「春から君の下に新人をつける。唯一の高卒採用者だ。だが全てを不採用にするつもりで作成したあの問題を、2位の成績で突破したヤツだ。一流大学を出たやつよりも高得点を取った男だ。高校ではラグビー部の主将を務めガタイもいい。正にお前の部下が打って付けだ。頼むぞ」
そうしてザキはやって来た。
ザキはオレの命令に忠実に従った。
「いいか、分からないってことは恥ずかしい事じゃない。分からないことを分からないままにしてしまうことが一番の罪であり、みんなに迷惑をかけることになるって事を忘れるな。お前は成績優秀だって事は聞いてる。だけどオレ達はお前の何倍もこの仕事をしているって事を忘れずに、分からない事があったら何でも聞いてくれ。分かったか?」
そう言うオレの言葉にザキが応える。
「ちーっす!」
…………。
さすが体育会系出身だけある気合の入った返事だ。
そして、それからザキの質問攻めが始まる。
「先輩、この漢字なんて読むんですか?」
「それは築地(つきじ)だ。まぁ地名だから覚えとけ」
「先輩、この漢字なんて読むんですか?」
「ああ?為替(かわせ)だ」
「それってどういう意味ですか?」
「ほら、辞書には遠く隔たった者の間に生じた金銭上の債権・債務の決済または資金移動を、現金の輸送によらずに行う仕組み……って書いてあるだろ。まぁ覚えとけ」
「債権・債務ってなんて読むんですか?」
「ほら、辞書貸すから調べてみろ」
「先輩、辞書に給付とか返還って言葉があるんですけど、どういう意味っすか?」
「……。んじゃそれも調べろ」
「先輩、話は変わりますが、課長がこの資料の数字を全て2割引きに書き直せっていてるんですが、どういう意味っすか?」
「まぁ、それは全部の数字を20%offで表示すりゃいいんだよ」
「それってどうって計算するんすか?」
「おいおい、お前、採用試験2位で通過したんだろ?それくらい分かるだろ?」
「いやー、試験は全部選択式だったモンですから。何となく答え選んだだけです」
「あぁ、そういうことか」
「そういうことです」
ある日の午後、電話を受けたザキが言う。
「先輩、部長が資料を忘れたから大至急届けてくれって言ってます」
なに?
その日の部長の予定といったら、商談のために海外へ向うためこの時間は空港にいるはずだ。
オレは急いで車をザキに用意させ、部長の机の上から該当する資料を探す。
「先輩、車用意できました!」
オレ達は急いで空港へ向った。
フライトの時間までは猶予が殆ど無い。
空港への車中、ハンドルを握るオレにザキは言う。
「オレ、今度トライアスロンに出ようと思うんです。足には自信があるし、中学は水泳部で全国大会にも出たんですよ。だから夏のボーナスで自転車買おうと思ってます」
オレはそれどころじゃなかった。
部長が飛び立つまで時間が無い。
悪いがザキの言葉にはウンウンに気の無い返事をした。
間一髪空港に到着したオレ達は、車を駐車場に入れて部長の下へと急ぐ。
「先輩、俺走りには自信があるんです。任せてくださいっ!」
そういってオレから封筒を奪い取るザキ。
「お前、空港には来た事があるのか?いいか、国際線だぞ!国内線と間違うなよ!」
ザキは走りながらちょっと頼もしげに軽く手を上げた。
だが一抹の不安が拭いされないオレは、ヤツの後を追って走った。
さすがに足に自信があるというだけある。
オレの本気の走りでもヤツには追いつけない。
きっと、オレのベストランを見せたところで、今日のザキの走りには勝てないかもしれない。
ラン、ラン、ラン。
直向に走るザキ。
だが……。
「おーいザキ、そっちは国内線の入り口だぞー!」
オレの声を聞いたザキは、空港の入り口の間近で走りながら振り返る。
「え、何ですか?」
そして彼は、ガンっ! という大きな音を立てて自動ドアにつっこんだ。
ドアは壊れなかったが、その激痛にもだえ苦しむ彼を尻目に、オレは地面に落ちた書類を拾い上げ、国際線ゲートへと向って急いだ。
そんな感じで。