与えることは得ること |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

私は中学生時代、かなり出来のよくない部類の学生でした。

成績は中ランクの下のほう。

そんな自分が選択した高校は、なんと自分の成績でも入学試験時に上位に入れるという、まあ、学力的には低めの高校でした。

担任の先生から順位を告げられた時、「なんで自分がそんな順位?!」と思っただけでなく、「自分がそんなレベルだなんて、なんて学校だ!」∑ヾ( ̄0 ̄;ノと半分あきれた記憶があります(笑)

しかし、そのおかげか、私は中学時代の汚名を返上し、少しやる気になって高校の三年間を過ごしました。

その当時から小説も書いていたし、占星術の勉強も始めていたのですが、学校でも成績は常に上位。
(あの、これ自慢話じゃないですから。前述のとおりの学力の学校だったので)
それも一夜漬けでなんとかなるという……(授業は真面目に受けていました)。

一年生の時に学級委員をやらされたり、その後、生徒会の副会長をやったりということもあり、そういう流れの中で担任の先生の発案だったと思うのですが、放課後に希望する生徒に対し「寺子屋教室」のようなものをやって、あなたが教えなさいというような、時期がしばらく続きました。

要するに「あんたが理解しているんだから、あんたがわからない子に教えてあげなさい」的な。

この当時の担任というか、私の担任はなんと三年間、同じT先生という長身の女性教諭でした。
(背のあまり高いほうではない私は、三年間、この教諭に見下ろされ続けたわけです)

このT先生に丸め込まれて、ほかの生徒たちに教える羽目に……。


ところが、結果的にはこれがよかったんでしょうね。

教えようと思ったら、丸暗記だけでなく、ちゃんと数学の数式ならその数式の意味を理解していないといけない。

わからなかったら先生のところに聞きに行き、みんなに教えながら考えていたら、自分で納得できる答えを見つけたり。

そんなことの繰り返しで、結果的にこれが私の好成績にもつながったようです。



時は流れ。

同じことは大学の教壇に立つようになっても起きました。

まったく準備のできていなかった初年度はともかく、それ以後、自分で教材を作り、生徒たちに自分なりに考察したことを教える段階になると、毎年、ミステリーに対する考え方や、また文学の歴史に対する考察は、深まっていきました。

教えるということは、何よりも自分自身に対して教えることなのだと。


昨年、占星術講座を開設し、その生徒さん達に教えていることで、このかつての高校時代、そして今の大学講師としての学習以上に、この自分自身に教えるということが、急速に進んでいます。

これまで漠然と、感覚的に理解していたホロスコープの解読。

私は講座開設以前、これをもうすでに身についたものとしてかなり本能的にやっていました。
もちろん、三十数年間という学習が背景にあってのことですが。

ところが、これを人に教えようと努力すると、一度身についたものを全部バラバラにして出し、整理しなおす必要があります。

そして、もう一度、わかりやすい言葉にして人に伝える。

これが、どれほど占星術そのものへの理解を深め続けているか。

ごく初期に、占星術を吸収し始めたころに匹敵するような速度で、今、私自身の学習がさらに進んでいます。

もちろん、私も知らなかったことを、生徒さんのほうから情報がもたらされるというようなこともあります。

惜しみなく、人に与えること。

これによって、いかに自分も多くのものを得られるか。

与えることは得ることなのだ。


自分の持っているものを大事にするあまり抱え込んでしまったら、小さく小さくまとまってしまい、先細りになる。

知識も技術も、愛も。

与えてこそ、豊かになるのではないでしょうか。


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