私が犯した【負】の思い出(第①…2013=平成25年7月10日・水曜/読者限定・解除)~ | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

 
 

 


「2022年=令和4年8月20日・土曜」(読者限定を9年後の今日解除し再投稿する)~
我が【負】の思い出』…第①(2013=平成25年7月10日.水曜の読者限定を今日解除する)~
 

キリスト教的に言えば…「懺悔告白)」…かも!!

…表題に言う…『我が【負】の思い出』…第①として此処に記す話の内容は…「キリスト教的に言えば…「懺悔告白)」…に当たるかも?…。

 …昔(我が義務教育的学生時代当時の出来事)…《「我が犯した【】の事件」に起因し…【佐代姫】の存在を私は知りました》…。

…【佐代姫】の事に付いては、既に私のブログに記していますが、其れは、「筆者のインナートリップの旅」に関連しての話しとして記しています。然し、其の年代(27歳)に達する迄の、我が心の中の葛藤に於ける…「我が【】の出来事」に付いては、一貫して、避けて、記載してきました。それは、つまり…「元来、人間(自分の意)とは弱い動物で有る」…と、自分に対し、自分の心の弱さを認識しつつ、其の事を隠そうとする我が意識が強く働いていたからで有りました。

…是れ迄、ズーッ、と、私は、他人に対してでは無く…「自分自身の心の持ち方」に対して、自問自答しながら、自分の心の持ち方に於いて、我が…「内面的な心の中の弱さ」…の部分を鼓舞する事を以て、自分を騙し続け、今日に至った、と、今(2013/7/10/水曜)、私は、理解する次第で有ります。然るに、「我がインナートリップ」時に於いて、我が気持ちが落ち込んでいる時には…『巨人マーラー作曲交響曲第一番)』や、『フィンランディアシベリウス作曲交響詩)』等のお気に入り的な在る部分の音楽のリズムを、我が心の中のリズムに置きかえたりしながら乗り切りました。然し、其のクラシック音楽に出会う迄(20歳頃)は…「我が心の中の弱さ」…を、補助する何物も持ち合わせてはおりませんでした。まして、友達も無く…。

…「彼の事は忘れよう」…とすれば…そう思う程、鮮明に…「彼の当時」(中学1年生に成った最初頃の事)の…「在る物を持った時に覚えた優越感」…の中に潜む【別人格】の存在に付いてで有りますが、其の年頃の私に於いては知る由も有りませんでした。。

…其の事を今考えてみれば、「彼の負の事件」…を起こしてから暫くして、母から、其の…「在る物」…を取りあげられた事を以て、事件そのものに付いては忘れかけるので有りますが、其の事に関しては複合的な出来事が絡んで来て、折角忘れかけていても、別の事(幼年期の在る夢)が思い浮かんでは、再度…「彼の瞬間に見た事」…が蘇って、其れまで忘れていた事が、又、思い出されると言う事の繰り返しで、今日に至っている次第で有ります。

…我が過去の中で気が付いた事の生きざまを振り返れば、其の優越感の中に於ける我が心の持ち方の変化の中に於いて、全く逆の…「別の自分が存在している事」。又、社会人に成ってから、「目に見えない何らかの力に因って」…生活環境的、自然的方向性に向かっている生活を振り切って迄も、其の見えない…「在る力」…に制御されたかのように、自分の正常な意思とは全く正反対方向へ舵をとる自分が存在している事(30歳頃)を始めて認識した事。然し、此の時点に於いても、未だ…「我れは何をしなければならないのか?」…とする答えの糸口さえ見出し得ていない…「我が迷(青春)いの真っ直中】…を未だ引き摺っておりました。

…「別の自分の存在認識(30歳頃)」に関し、始めて文書化しようと思った事(2013年7月10日)のキッカケは、私が、何時、突然死するかも知れない」…と、言う事を痛感した事に有りました。つまり、我が体調が思わしくない事に始めて気が付いたのは昨年の今頃の事でした。其れは、久しぶりに…『古代史に親しむ【桃風童子】の会』…に於ける、遺跡散策に出席した時でした。

…遺跡散策とは言っても、時々は、ハイキングを兼ねたコースが組み込まれたりもしていて、此の時は、麓から行く、暗がり峠越えの生駒山頂を経て、降りは、宝山寺を経て、最初の出発地点で会った近鉄線の学園前駅で解散と言うコースが組まれていました。…是れまで、生駒山は何度も登っていて、又、大阪近辺の、信貴山、葛城山、金剛山、和歌山付近の葛城山なども良く登っていたので、此の程度の山登りには自信を持っていたので有りました。然し、此の時は、麓からは、未だ、なだらかな坂で有ったにも拘わらず、30分程も歩いた頃から息が苦しくなり、胸と背中にも痛みが走り、最後は身動きが出来ない状態に陥りました。

…61歳で定年退職し、殆ど毎日は家の中だけの生活が多かったからかも知れませんが、自分の体は変調をきたしていたので有りました。つまり、我が命はもう長くはないかも知れないと考えるようになり始め、そう考え始めると、彼の事(我が負の思い出)は、必ず書き遺しておかねば死んでも死にきれない程の悔いが残る思いが募り、今、此処に記す次第と成りました。然るに、其れで、先日の【ナウ】に、其の意(ナウの記述を下記に記す)を投稿した次第で有りました。
 

秀真 太郎[7/8 16:44]…《最近…私は、人の名字としての頭文字である処の…【】…の字を見ると、時々…何故か?…ビクッ…と、する事が有ります…。ヤハリ…「過去に於ける我が【】の出来事」の事が、最近…つまり、我がブログでの【佐代姫】に関する記述が多くなっている事に起因している事に、気が付いた次第です

…此処(上記)の…『ナウ(アメーバ・ameb』…に記す人名の頭文字…【】…とは、今から数年程前に、沖縄に関連する歌謡曲等の中で、良く歌われている歌で、其の歌を歌っている、在る、有名な女性歌手の頭文字でも有ります。

…此の続きは…少し、我が頭を冷やし、忘れかけていた事等を思い出す必要に於いて、一次、記事の進行を中断し、是れ迄の記事を修正して、再度、投稿する事致しました。然して、大方の概略的な事は、今週中に於いて…「此のブログ(下記に記します)」の続きとして書く予定と致します。

…尚…此のブログのテーマ、つまり…《連続篇…「我が犯したの思い出より》…に言う「連続篇」の意は…「筆者のインナートリップの旅」(詳細はホームページ【http://w01.tp1.jp/~a098477294/】に記しています)…に足を踏み入れる以前(27歳に至る迄)に於ける、我が心の中の葛藤に関する出来事を記していく予定で有ります事、宜しく…

…此処の画像の…【佐代姫・塚】は、【佐賀県・伊万里社会保険病院の中庭】に存在します…。

…(第①の追記文を下に記す・2013/7/16/火曜)…

…今日、先週に近所の図書館で借りてきたCD「モーツァルト作曲…フィガロの結婚・序曲」(オペラ序曲集)を聞いていると、未だ、インナートリップを決行する前の、少し、のんびりとしながら我が家で何時もクラシック音楽を聞いていた頃の出来事を、懐かしく思い出されて来ました。

…思い起こせば、私が中学1年生に入学した直ぐの頃でした。私より1歳年配(中学二年生)の遊び仲間の阿原匿名)と言う人と、私の二人は、在る用事で隣町(浦之崎)へ行って、其の帰り道、[浦之崎公民館]の前を、阿原阿原君は私より1年先輩だが父の知り合いの家族と言う事で同等的な友だち付き合いを約束しての其の初めての遊びの日で有った)と雑談しながら歩いていると、其の連れの友達、つまり、其の阿原君の直ぐ横(右側)を、後ろから…「凄いスピード小学生としてはを以て自転車が通り抜けた!!」…。其の瞬間、我が連れの友達(阿原)が…「オッ!!…危ないやないか!!」…と怒鳴った。すると、振り向きながら其の自転車の子は、…「バカ!!」(既に自転車は20~30㍍程通り越していた)…と言って、其のまま逃げて行った。

…「覚えとけー!!此のままじゃーすまさんぞー!!」…と、我が連れの阿原は怒鳴ったが、其の子供は自転車に乗って何処かに行ってしまった。それで、其の近くで遊んでいた数人の小学生に…「今の奴の名前は何と言うねー」(実際は伊万里の方言を以て問うた)と聞くと…「此の病院浦之崎公民館の筋向いに位置するの社宅二軒並びの西側の子供」…との事で有った。それで、其の[浦之崎社会保険病院]の横のヒッソリとした敷地内を通って病院の社宅の前に行き、表札を見ると…夏川…と言う名字で有った。

…其の翌日(下校後)…其の連れの阿原君は…「アイツ夏川に必ず復讐する」…と、しつこく言いながら私にも手伝えと言ったので、仕方なく私も隣町(浦之崎)へ行った。然し、其の日、其の子供を探し出す事は出来なかった。すると…「必ず見付けて復讐するから、是れから毎日、浦之崎へ行く」…と、威勢良く言ったので、私も其の意見に同意したので有りました。而して、其の次の日、其の阿原君は…「自分は用事が有るので私独りで行って復讐してくれ」…と頼まれので、私は友だち付き合いを始めた直後の出来事で有った事から仕方なく私だけで、隣り町へ行った。そして、浦之崎社会保険病院の横を通って、其の病院の社宅の方へ向かって歩いていたら、1人の看護婦さんとすれ違った。普段、病院関係の人しか通らないようなヒッソリとした敷地内を、私が独りで通って来たので、不思議そうな顔して、其の看護婦さんは、私に対し…「何か探し物?」…等の意味を問われたので、私は…「ハイ」…と返事をしました。すると看護婦さんは…「此の儘、真っ直ぐ行って、突き当たりを右に行ったら直ぐに有ります」…と、意味不明な事を教えてくれました。

…つまり、部外者の私が此の病院の横道へ入って来るのを見て、其の看護婦さんは、其の病院の裏側に存在する…【佐代姫】…を探しに来たのだと勘違いされていたので有りました。それで私は、言われた通りに行って見ると、其れは…【】(正確には塚で有る)…のようで有る事に気が付き、急に気持が悪くなって、其の日は直ぐに家に帰りました。而して、其の翌日、連れの阿原君が言うには…「毎日、隣町迄行くのは面倒くさい」…等と言って…「昨日みたいに私1人で行って復讐して来てくれ」…と阿原君は言い出したので有りました。つまり…「実際の処、私には全く関係が無い事で有る」…と言って、きっぱりと断れば良かったので有るが、何故か私は断り切る事が出来ず、其の復讐を引き受けてしまった次第で有りました。 

…病院の近所は…【】(上の画像を参照の事)…が有るので怖くて近寄れず、少し離れた処を散歩しているふりをしながら、毎日、隣町へ行って、其の復讐の相手を探していると、そんな或日、其の浦之崎の酒屋の隣りに住んでいる私の従兄弟(同級生の男子)が、其の子供の情報を教えてくれた。其の情報とは…「時々、従兄弟の隣りの酒屋に、家病院の先生の子供で有ったの使いで買い物に来ている」…と言う事で有った。其れからは、従兄弟の家の前で、毎日、其の子を待ち伏せをしていました。従って、そんな或日の事、其の子(小学五年生で有った)が買い物に来たのを見て、其の帰り道の運動場(当時はグランドと呼んでいた)迄、歩いて同行させ、事の次第(復讐するに至った経緯)を説明すると…「身に覚えが無い」…等の返事をしたので、私は、其の相手に復讐を実行しようとして…「掌に隠し持っていた在る物をカチッ音をさせて開いた瞬間」…其の子はビックリして自転車を棄て、一目散に走って自分の家(グランドの北端の方)へ逃げて行きました。然るに、自分としては…「復讐劇は、是でもう終わった」と認識し…「是れからは、其の一切は忘れよう」…と思いました。

…それから暫くしての或日の事、我が母が言うには…「もう中学生になったので、米買いの使いをしてくれ」…との事でした。其の[米買い]とは、下校後…「2日置きか3日置きに、毎日の御飯の米3キロを現金当時の父失業対策の仕事は日給払いだったので三百~四百円程米穀通帳を持って隣り町の米穀店へ歩いて買いに行く用事」…で有りました。母が言うには…「6歳上の兄の名前も中学生になったら毎日、桶を担いで、1日に何回も水汲みの手伝いしてくれた」…と、言い、更に…「お前も是れからは家の手伝いをせんとでけんばい」等と、伊万里弁で、家の用事(他には、七輪で石炭に火を付けて石炭の煙を無くしておくこと)の手伝いを言いつけられました。

…其の[米買い]の用事で隣り町へ行く事と成ったのは、私が中学三年を卒業する迄の3年間も続きました。而して、其の用事に於いて、つまり、隣り町への[米買い]の行き帰りの道に於いて…「何処か?」…からかは知らないが、私を見付けた彼(復讐相手の子)が、大人用の自転車に乗って私に近寄り…「ごめんなさいごめんなさい」…と、何回も言いながら謝って来たので有りました。然し、自分としては…「もう終わった事」…と思っているので、無視して帰ったので有りました。而して、それからというもの、私が隣り町へ行く用事に於ける、其の行き帰りに於いて、彼は、私を見付けては…「ごめんなさいごめんなさい」…と何時も、謝って来るので有りました。それで、其の子と会わないようにと「国鉄JR松浦線)」の線路沿いの細い道を選んでの…「米買い」…の日々が続き、そして、中学二年生を終え、中学三年生に成っての学校での事でした。或日の昼の休憩時間(何時も昼ご飯は食べなかった)の時、私は教室を出て、独り、ぼんやりしながら立っていたら、急に、後ろから…「〇〇君筆者の名字)」…と、小さい声で私を呼ぶ声がした。振り向くと、其処には、中学一年生に成っていた彼の子(夏川)が立っていて…其の最初に言っていた口調を以て…「ごめんなさい」…と、謝り出したので有りました。此の時、私は…「もう良い」…と言って、其の場を離れました。

…そして其の、其の場を離れる時…「長い時約2年間程を経た今でも私を捜して謝ろうとしている」…其の子の姿を見た時…「最初に謝って来た時に、直ぐに、返事をしてやれば良かった」…と、言う思いをしていた次第で有りました。

…此の上記の出来事等を忘れようとすれど、何故か、彼の時に見た…【】()…の気味悪さが何時も思い出される次第で有りました。それから、私が26歳頃昭和48年頃)の年末の夕方六時頃、田舎の母が交通事故に遭遇(重傷)したので帰郷しました。其の入院先が[浦之崎社会保険病院]でした。それで、彼の時に見た…【】()…の由来を病院の人に訊くと、【佐代姫神社】に関連する意を、此の時に始めて知った次第で有りました。而して、後年(現在)、【日本語の起元解明】に成功した意に於いて、尚、此処に至ったのは何かの因縁かと思う事を考えれば、【佐代姫神社】(村社)の境内の地に、来年の冬頃、記念樹(珍しい種類の桜の苗木)を植えさせて頂こうかと、其の計画の思案中で有ります…。

…郷土の大人(浦之崎の人)なら殆どの人が知っている【佐代姫神社】で有りますが、果たして、【佐代姫】の存在に付いては知らない人が多いかも知れません。何故かと言いますと、其の【佐代姫】は、一般の人目に付かない場所で、普段は殆ど人が立ち入らない[浦之崎社会保険病院]の敷地内、つまり、現在でも病院が建て替えられての中庭に位置する処に存在するからで有ります。然るに、私が此の【佐代姫】に関心を持ったのは、此処に記す『我が負の履歴』に因縁を持つからで有りました。

…《【佐代姫神社】への植樹計画》…を成すに於いては、簡単ながらも上記に記したような出来事(『我が負の履歴』)を、我が心に閉まった儘では何かと我が心は落ち着かず…「今迄、誰にも明かした事が無かった此の我が過去の出来事」…を此処に書く事に因って、我が魂が救われるような気が致します事、何とぞ、宜しくの程…。
                    
                       以上…第①話・終り

連続編…『我が【負】の思い出』…第②話…(2013/7/29/月)…

 
…私が中学1年の在る時、授業開始のベルが鳴って全員が席に着き、座って先生が来るのを待っていた時の事でした。隣りの教室(六組)の生徒同士の喧嘩で、ナイフでの殺傷事件が起きたのは。隣りの教室の外の廊下の方から、突然、大きな悲鳴が聞こえました。私は廊下際の前の方の席だったので直ぐ教室の外の廊下に出て、其の状況をいち早く目撃しました。其れは、指された男子生徒が、刺された足の傷の処を押さえながら、叫び、呻いていました。
 
…然る後、此の事件をキッカケに…何らかの噂話の中で…「中学生未成年が殺人を犯しても死刑にはならず、刑罰の刑期も少なくて済む」…等の情報を得ました。
 
…而して…「彼の時(夏川を脅した時)」…の私は…「そんな大それた事など想像すら出来ない世界」の事で有り、まして、そんな考えには及ばず…「単に、珍しい物を見せ付けたかった」…事にも一因がありました。
 
…そんな或日(脅した日から暫くして)の事、父が私に…「チョット、ナイフを貸してくれ」…と言ったので私は父に貸しました。其の日の夕方、父が帰って来たら直ぐナイフを返してくれました。其れから間もなくして帰ってきた母が私に…「宏、ナイフ持ってるやろ、出せ!!」…等と伊万里弁で言ったので、私は母にナイフを渡しました。

…後年(25歳の時)、会社の寮を出て公団住宅(大阪府藤井寺市)に住む事と成った其の年の年末の夜( 1972・昭和47年12月31日・夜)、母は交通事故に遭遇し、命は何とか助かったのですが、一生、半身不随的になって殆ど死ぬ迄が寝たっきりの生涯でした。而して、其の母の交通事故から13年が過ぎた昭和60年2月に、父が他界(私が喪主を務めました)。そして、其の父の初盆で帰郷(日航機墜落事故の前日)した折、「彼のナイフは何処に有るのか?」…等の意を母に訊きました。すると母は…「海に棄てた」…との事でした。其れで…「何故海に棄てた」…と、訊くと、彼の日(母が足の脛の処を怪我していて病院で手当をして夕方に帰って来た日)、私が父に貸したナイフで母は足を父に刺されたとの事でした。彼の時の母は…「怪我をした」…と、だけ言っていましたが…「私のナイフで刺された」…と言う事を、此の時に私が訊いたからこそ、始めて其の当時の我が家に於ける夫婦喧嘩の内容等の一部始終をも知る事と成った次第で有りました。つまり…「彼の私のナイフで父が母の足を刺した」…と言う事を始めて知った次第でありました。

…其の我が父は、私より2歳年下の妹が卒業して大阪へ就職した事を以て、我が家を出て行きました。そして安い家賃の家で1人暮(別居離婚はしていません)らしをしていたが、更に其の後、我が家の近所の阿原君のお父さんと我が父は、京都の竹中工務店に出稼ぎに出て、間もなくして、阿原君のお父さんは事故で無くなったとの事でした。すると、我が父は、其の亡くなった人(阿原君の父親)の家(子供五人家族)に住み着いてしまいました。つまり、其の亡くなった人の妻(奥さん)と、我が父は、其の昔からの浮気相手であった事が、単なるでは無く、実際に浮気していた事が、此の出来事を以て、証明された訳でありました。

…然るに…「彼の、夏川に復讐仕返しすると意地に成って言い出した、私より一つ学年が上の友達」…とは…「京都に出稼ぎに出て、事故で亡くなった人の家族の長男」…でありました。尚、此の…「京都への出稼ぎ」…に於いては、我が父も、其の、亡くなった人と一緒に出稼ぎに京都へ出ていたのでありました。尚、其処の家の長男(阿原君)が、私よりも学年が一年上で有るにも関わらず、友達付き合いをしていた訳は、父が、此の家族を我が家の近所の空屋を斡旋した事を以て、引っ越して来た次第でありました。従って、其の阿原君は友達等が未だ誰もいないと言う事で、我が父から…「其の阿原君を始として其の家の子供達と仲良くして、一緒に遊ぶように」…と、言われていたからでありました。然るに…「彼の復讐」の話しに関しては、全く私に取っては関係が無い話であったが、
而して、此のような退っ引き(ノッピキ)ならぬ経緯があって…「我が負の履歴の一端」…が、此処に刻み込まれた次第であります。

 …私は小学校の六年の時、校内の廊下で時々【イジメ虐めた人は緒方君)】を受けていました。

 …又、中学一年の時のイジメも同じ教室の人間でしたが其れは、又、別の人間(多久島君)でした。そして…「中学一年の番長グループの間での喧嘩に因る彼の傷害事件」…が発生した時、私をイジメていた人もの、其の番長グループに属していました。

 …「彼の時中学一年生の時の番長グループ達の仲間同士の傷害事件」…が発生した後。「こんな手も有ったのか」…と、私は思いました。其の殺傷事件の頃は…「私の彼のナイフは母に取りあげられて持っていませんでした」(家の中の何処かに有るとは思っていた)…然し、若し、母が私に…「彼のナイフを返していたら、若し、私が其のナイフを所持いていたら、彼の殺傷事件後には、私の人生は又違う道が待ち受けていたのかも知れない」…と、今は思う次第であります。
 
…私が小学六年生の時、「錆びたナイフ」(主演石原裕次郎)と言う映画が流行していて、其の映画の主題歌には…「♪そんな気がする小島の秋だ-」(小島とは筆者の名字でも有ります)等と言う歌詞が折り込まれていました。其の、人の名字に関連する歌詞の処だけを強調しながら言い放っては、何かとイジメに来て、私が相手にしなかったら暴力的( 柔道の練習と言いながら)に成って来た次第でありました。然るに、中学一年の時は、何の理由も無しに、多分…「小学校の時も同じように、私は教室の中でのグループや友達等は誰も無く、孤立していた」…ので、イジメ虐め)がやりやすかったのかも知れません。

…私達が小学、中学生時代、【折畳式小刀】(ヒゴノカミとも言っていた)は常識的に誰もが持っていました。其れは、鉛筆を削ったり、学校の勉強に於ける工作等に用いていたからでした。今は安全的な折る刃カッタ】(岡田工業オルファカッターの語元です)や、【NTカッター】(〈折る刃の技術開発者で有る岡田さんからNT日本転写の会社が特許権を買って製作されての命名が有るから殆どの学生達の誰もが、其の昔の【折畳式小刀】は携帯していないと思われます。

…我が其の昔(中学生時代)、下校後、又は、学校の休みの日には、良く、近所の子供達同士で近くの山に登り、竹や木々を【折畳式小刀】を用いて遊びの道具(チャンバラ鳥の囮笛等)を作って遊んでいました。
 
…私の兄(6歳上の長男)は、私が小学四年生に成った年の春、大阪(生野区鶴橋商店街)の[某工具店]へ就職して行きました。其の四年後(私が中学一年生に成った年)、其れ迄も父と母は何時も毎日、夫婦喧嘩をしていました。それで、後年、母に訊いた話ですが、我が家族(昭和25年冬私が2歳半頃)が夜逃げして叔父の家に逃れてきた原因、其れは、元々は、父の道楽女遊ギャンブルで借金が増え、見兼ねた叔父(遠方の浦之崎で瓦製造業を営んでいた)が、夜中に自分の船を岸壁の側に有った我が家(楠久炭坑の社宅)の側の岸壁に、夜中、社宅の各家の電気が消えたのを見て、又、夜逃げの対照とする我が家の位置を灯りで父が知らせた処に、沖で待機していた叔父が船を寄せ、家財道具を積み込ませた後に叔父の家に運び込み、事(夜逃げ)が成功した次第で有りました。
 
…其の後、叔父の瓦製造業を父母が手伝っていた頃は良かったのですが、夜逃げした頃から、叔父の家の近所(県道の直ぐ横)に炭坑の立坑口を掘る工事が始まりました。又、其れ以前から、県道(断崖的叔父の家の直ぐ上)の拡張工事が予定されていて、叔父の家は立ち退きを迫られていたので有ったそうです。そして、私が小学三年の夏(三本有った黄槿の木は切り倒された)、移転費用で建てられた我が家が完成(本家の土地)し、県道から山際の建てられた、其の家に移転した次第で有りました。
 
…而して、父は失業し、「日本政府に因る失業対策の仕事」(日給通称シッタイと呼んでいた)に従事するが、幹部的(点呼取り等の仕事)仕事を良いことにしての道楽が始まり、日給の生活費の殆どは、パチンコやボートのギャンブルで無くす以上に借金も増え、そんな父を心配した我が兄は、働いていた大阪の店(工具店)の主人に頼んで何日かの帰郷の許しを得、我が家に帰って来たのでした。
 
…私は、そんな事情とは露知らず、兄は…「おみやげ」…を買って帰る状況では無かったので有りました。そんな私、つまり…「何か、物たりなさそうな私の表情を察してか?」…「珍しさ」…を…「其の代りとしてのオミヤゲ」…の代用と考えてかは定かで無いが、兄が商売用として所持していた其の…「在るナイフ」…をプレゼントしてくれたのでした。
 
…其の当時、映画か雑誌とかで有名になっていたが実際的には未だ見たことも無く、近所の子供達も、其の名称のナイフの事を話しの題材にしていたが、其れは…「何故、いきなり掌から瞬間的にナイフの刃が表われるのか?」…で有りました。そして、其のナイフの呼称が爆発的に取りあげられかけた、その時期に、其のナイフでの殺傷事件が生じ…「社会的事件のニュース」…として話題になって、直ぐ…「飛び出しナイフ販売禁止令」…が出されました。従って、殆どの人達が手に入れる状況に成る以前、既に店頭から姿を消した次第で有りました。然し…都会(東京大阪等)から見れば辺鄙的な位置に有る我が【浦之崎】の町に於いて、既に私は、其の…「飛び出しナイフジャックナイフ?)を持っていた」…ので有りました。従って…「我が独り的な優越感」が、たまらなく嬉しかった事を良く覚えています。更に、尚、[飛び出しナイフ販売禁止令]に因って巷からも姿を消したと言う事も輪をかけての優越感を保持していた次第で有りました。        

 
…然るに、此のブログの一番上の画像は…「浦之崎グランド」…其の下(二番目)の画像は…グランドの南側入口付近」(脅した場所)…そして三番目の画像は、グランド北側に建立する…「佐代姫神社」(此の神社の由緒は我が別のブログ http://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11540626144.html に記しています)…其の一番下が…「佐代」(佐代姫神社の東側に位置する浦之崎社会保険病院の中庭に存在します)…。        
                         

                         以上第②話は終る

 …此の続きの第③話は、ページを替えて記す事と致します

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…ブログを更新しました。 『№②…「私が犯した【負】の事件」に起因し…【佐代姫・塚】の存在を私は知りました…
 
 
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