今日の朝のテレビ、グッドモーニングの中のことば検定で、襟をただすの本来の意味はなんでしょう、という設問があって、話が感動することを受けて、自然と自身の居ずまいを正して聞き入った状態という意味のことを解説していました。
ここでいいたいのは、この襟をただすということばが、小説でいえば地文、脚本でいえばト書きに当たる、いわゆることばを発した後の動作解説文になっているというところに、少し注目いただきたいわけです。
小説でいう地文にせよ、脚本でいうト書きにせよ、これは台詞部分に当たるカギカッコ文以外の文章ということになります。
たとえば
「おいしそうですね」
という会話文があったとして、みなさんはどういう設定で発せられた台詞と思いますか?
たぶん美味しそうな料理がいっぱい並んでいて発せられた台詞と考えるのが普通ですが、たとえば悪巧みの儲け話があって、「どうだ、ひとつ乗らないか?」といわれた後の台詞とすることも可能です。
つまりこの場合ですと、その悪巧みに即座に乗るのであれば、「おいしそうですね」という台詞にはなりませんね。「ぜひお願いします」とか「乗らせてください」となるはずで、「おいしそうですね」という台詞では、意思表示をぼかしていることは明白です。
ここまでいうとおわかりになるでしょうが、仮に料理を前にして発した台詞だとしても、まだ食していない状態で、「うまい」「まずい」といえる状態ではないことがわかります。
つまりお話を書く場合は、必ず、台詞部分と地文あるいはト書き部分があって、それは対になっていることを自覚いただきたいわけです。
もちろん台詞がなく設定のみの解説部分もありますから、あくまで台詞がある場合は、それがどういう設定上で語られたものかが必要ということです。
昔、テレビのない時代、ラジオドラマが全盛の時代、私たちの年代の人間は、それこそかじりついて聞き入っていました。
美空ひばりさんが歌舞伎界から引っ張ってきた中村錦之助(後の万屋錦之助)さん主演の笛吹童子というシリーズ映画がヒットしたのは、ラジオでワクワクした私たちが、映画館に親にせがんで観に行ったからです。
が、私同様「あれ、なんか違う」そう思った方もいたはずで、それはラジオで聴いていたイメージと違うからです。
そのことは月刊誌だった漫画のヒーロー、月光仮面などでもいえます。
文章の世界はイマジネーションの宝庫ですが、ラジオドラマになると音声というリアルが、イマジネーションと違和感を覚えさせるようになり、さらにテレビや映画では、それまでのイマジネーションを粉砕してしまう可能性もあるわけですね。
ただどっちがいいという意味ではありません。
たとえば我が師松本清張は、砂の器という作品で、映画だから可能な表現もあるから、これは映画版砂の器ですね、と評価していましたが、率直にいえば明らかに映画版の方がすごいと今も思っています。
テレビや映画には、当たり前のことながら、地文やト書きはありません。
それを補うのは役者の台詞を吐いた後の表情や、撮影技術に置き換えられます。
つまり原作である小説や脚本の、地文やト書き部分をいかに表現するかが、ヒットの要因でもあるということですね。
さて、ここまで読んでなるほどと思った方、知らないうちに襟をただしていませんでしたか?