【節分44マグナム

 

 

 

どうやらまた豆まきの季節が来たらしい。

コンビニには節分用の豆が売られ、紙の鬼のお面が添えてある。

お面がないお父さんにはこのお面をどうぞというサービスだと思うが、それにしてはお面が小さいゾ。これで顔が隠れるのは、今大人気の韓国のアイドルぐらいだ。

 

寒いのか寒くないのかわからないような日が続いているが、寒い時はとてつもなく寒かった。

地獄のような寒さの時、内緒だがオレは革パンの下にユニクロで買ったタイツをはく。インナータイツと言うらしいが、要するに股引だ。ラクダ色じゃないが、へへ~ンこれでオレも昭和のお父さんの仲間入りだ!なんてひょうきんに踊ってみたが誰も感心しちゃくれねえ。

どうせ加藤茶や植木等の雄姿を知っているオレをうらやんでいるに違いない。

 

しかし股引を仕込んでいるとはいえ、オートバイに冬の寒波は身に沁みるゼ。

チクショウ、今度は寅さんの腹巻を巻こう、しかもあの日は小雨が降っていた。

オレは信号待ちで、雨でかすむ向こうの赤信号を見ながら

心の中で「ううっ」とうめき声をあげたりしたのさ。

そしてかじかんだ手をさすったりしながら、オレはなぜこんな寒い日に外へ出てしまったのだろうと自問自答したりした。

すると、自転車の女子高生3人組が、合羽なしの制服で、目の前の横断歩道を突っ走っていく。

何という事だ、こんな事があっていいのだろうか?

異常事態だ、異常事態宣言だ!

女子高生はこの地球上で最も強い生物かもしれない。

素足であの短いスカートはとても人間業とは思えない。

分厚いコートに身を縮めてその後ろをとぼとぼ歩くおじさんこそがまっとうな人の姿だというのにみすぼらしく感じるゾ。素足ひらひらのチャリンコ3人娘の後ろ姿は、まるで寒波を飛び交う鬼の子だ。

 

果たして鬼はいつ退散するんだ。

田舎でオレをコロナの救世主のように言ってくれるお姉ちゃんがいるが、待ってくれ!確かにオレは経験から来るアドバイスはしたが、「セイジさんのおかげで納豆食べているからコロナ怖くないです」と言って時々飛び込んでくる彼女のSNSは、このご時世にどこかのお店で美味しそうな一品料理とお酒と共に楽しそうにやっている写真ばかりだ。

おまけに、セイジさん豆まきで、コロナは外!ってやってくださいねとメッセージが来た。

オレを信じてくれるのは嬉しいが、オレは随分豆まきはしていない。

幼い頃、母親は相当派手に豆をぶち撒かせてくれたが、あれはいい思い出だ。あんまり掃除をしない人だったので、一週間はそこいらに落ちていた豆を見つけては飢えをしのいでいた。

またあれくらいド派手に豆まきをすると気持ちいいだろう。自粛勧告で人々の心は冷え切っている。

そうだ今年は豆でも買ってきて豆まきでもやってみよう。

お姉ちゃんが言うようにコロナは外!を言って撒けばさぞ気持ちもいいかもしれない。

オレのでかい声を上げるとご近所の人たちに勇気を与えられるかもしれない。

そうだ!これこそロッカーの役割なのだ。

オレは遂に悟った。ベランダの寒風に立つのだ!

多少寒かろうと、あの女子高生を思い出せ。

あの時、先頭の子はまるで獲物を狙うハンターのような目つきだった。あの目つきこそ人類の希望かもしれない。

見ててくれ、オレは今夜、夜空にむかって力強く「コロナは外!」と叫び、豆を世界にぶっ放すようにばら撒くゼ。

きっと豆の数粒は、月光にキラッとして誰かの心を感動させるだろう。

 

撒き終わったら、オレの部屋でグラスにゆっくりビールを注ぎながら、オーティスレディングの‶I can’t turn you loose‶をかけよう。

そうすれば、世界は少し平穏に近づくかもしれない。

 

 

 

 

【冬眠少年】

 

 

 

幼い冬、田んぼでヒキガエルが寝ていた。

長崎県諫早市の小学校の帰り道に、田んぼのあぜ道があった。

冬の田んぼには殆ど水はなく、子供たちはたまにそこに分け入って遊んだ。

刈り取られた後の、枯れた稲の根元が等間隔で並んでいる。

自分はその根元を踏んで歩くのが好きだった。一見固そうだが、踏んでみると

「ジャキジャキ」音を立てて足裏が気持ちよかった。

そして枯草一本を口にくわえ「あっしにはかかわりのねえ事でござんす」と流行りのテレビを気取りながら、振り返ってみたりする。

 

夏の田んぼは、メダカやオタマジャクシ、トンボや蝶の生き物の宝庫だが、冬になると冷たい空っ風が吹く中、生き物の気配はない。遠く水たまりができている辺りに白い鳥が数羽飛来して、時折バタバタと羽をシャープな角度で翻しながら、

水たまりをつついているのが見えるくらいだ。

遊んでいるうちにある箇所に目がいった。

土の表面の感じがなんとなく変だ。

子供は視点が低いのに加え、自然に対しての観察力と好奇心が鋭く旺盛だ。

「なんかここんところ変じゃねえ?」

稲を抜いて、先っぽで土を掻いてみた。するとヒキガエルの顔が出てきた。

冬眠だ。

のどがかすかに動いて目が半分開いている。

夏にはよく、田んぼの牢名主のようにどっしり座り、とぼけた顔で

「何見とんか、そこのあほガキ」何て言いそうな貫録を見せていたが、

この至近距離で見るとなんだか寝ぼけた顔してババンバンで、そうなるとちょっといじめたくなる。

稲の先っぽでオラオラとつついてみた。すると口からぶくぶく泡が出てきた。

巨大蝦蟇(ガマ)に乗って登場する忍者児雷也(ジライヤ)は、同じく巨大蛇や巨大なめくじを操る忍者と戦うが、蝦蟇が敵に対峙する時、泡をぶくぶく出していたような感じだったのを思い出した。

何か怖いゾ、蛙にしょんべんを掛けるとあそこが腫れると言うは本当だ。急いで上から土をかけた。

 

又、冬の別のある日、家の前の石垣の、その下の側溝で、蛇がお腹を見せて棒のように死んでいた。

石垣は蛇の棲家になっている。春か夏だかに足をかけて昇ろうとした時、とりついた石垣のお腹辺りで、ズルズルと音がするので見ると、ぶ太いアオダイショウが、穴から穴へ横っ腹だけ見せて移動の最中だった。慌てて飛び離れた。

そのアオダイショウかどうかはわからない。だが恐怖の全貌が意外にあっけなく丸裸になっている。木の棒で転がしてみたが、ゴムの蛇のおもちゃみたいに何の反応もなく、蛇の真ん中辺りを棒で引っ掛けて持ち上げてみる。するといきなりクネクネと動き出した。「わッ」と驚き、側溝の前の家庭菜園に落とすと、ニョロニョロ土の上をすべるように這って行ってしまった。

 

後年、蛇の冬眠の記事を読む事があった。蛇は冬眠の時は仮死状態になるらしい。

それはなるほどだが、なんであんなところにいたのだろう?まさかあのまま冬眠とは思えない。石垣の中から落ちたのか、潜っていた家庭菜園から寝ぼけて転がり出たのか?

よくわからないが案外そんなところかもしれない。

あの頃の自分は母親の体内から出てきてまだ数年しか経っておらず、この世界で初めて会う虫や爬虫類、両生類に親近感を持ち、生き物の心に寄り添う気分が自然と身についていた。

彼らが何らかの意思を持って動いているのも知っていたし、そして意外にドジな動きをする事も知っていた。

 

幼き日というのは、その超能力にも似た感受性で、メルヘンチックな世界にいたような錯覚を覚える。

今思えば、まるで冬眠から覚めて、徐々に頭がはっきりしていく過程で出会ったステキな仲間たちとの交流だったのかもしれない。

 

冬眠と言えばこんな話も思い出す。

ムーミン谷の住人は冬になると皆冬眠する。

だけどムーミンだけ目を覚ましてしまう。

今まで知らなかった冬の風景に向かって歩き出すが、孤独だと思っていたその世界には、意外な友達が起きていて、その友達と冬の冒険をする。

何か、あの冬のオレ達みたいだ。

 

やがて寒かった冬は終わり、白っぽい春がやってくる。

小鳥の鳴き声が聞こえ、花が咲き出す。

ただ男子だからなのか、花の持つ美しさには全く無関心で、それを美しいと認識した記憶がない。虫やカエルが花を美しく思わないのと同じだった。

その代わり花の蜜は吸った。幼い子供はみんな、蝶と一緒に花の蜜をよく吸った。

花の美しさに気が付くというのはどういうことなのだろう。

それは子供という生物が、だんだん人になっていく証なのかもしれない。

だったらオレの場合、ん!どうだろう、ちょっと遅い!?

バイト帰りに、ほろ酔いで歩いていた月明かりの夜、

水路に沿って咲く桜並木を見た時に、桜はこんなにも美しかったのかと衝撃と後悔と共に愕然と気がついた。

あれは、東京に出てきて二十歳をいくつか超えた春の出来事だった。

遅ッ!

 

【仮面の忍者・凧】

 

 

子供の頃の冬の遊びと言えば独楽、メンコそして凧揚げだ。独楽、メンコはそこそこできたが、凧揚げは結構悲惨だった。

舞ったり、落ちたり、高く揚がったりだが、自分の場合は高く揚がるのはまれで、例え揚がっても、すぐに空中でくるくると2,3回廻って逆さまになり、土に突き刺さった。

友達に頭上で持たせ走ったりするが、すぐにレーシングカーが停まる時に出すパラシュート状態で、背後の土に無残にバウンドしてオレに引きずられた。

しかし、ただ一度だけ、揚がったことがある、しかもあれよあれよと高く揚がり、なかなかのスリルを味わった。

 

幼き日、長崎県諫早市の山のてっぺんの屋根が青い県営住宅に住んでいた。

県営住宅は5棟あり、住宅の背後にあった崖のような石垣を登って振り返ると、巨大な長い蒲鉾が並んでいるようだった。崖の上にはお墓が並んでいてそのお墓が切れるあたりから焼き畑になっていた。冬はそこが子供たちにとっての凧揚げの場所だった。

 

その日は風が強かった。

上級生達の凧が揚がっていたので、自分も揚がる予感があった、が、なかなか揚がらない。

またもや落ちた凧を畑の向こうに置き去りにしながら、揚がっている他の凧を見ていると、突然強い風が足元にやってきた。すると握っていた糸がプルプルっと震えそれが一気に向こうの凧に伝わり、凧がすくっと立ち、風を真正面に受け、一瞬自分と綱引きのような形になった途端、凧は勢いよく空に舞い上がった。

ピューン

いきなり凧が寒空に力強くなる。

隣で揚げていた上級生が「伸ばせ伸ばせ!」と言うのであわてて凧糸をズルズルと伸ばし伸ばしに伸ばすと、糸はどんどん伸びていき、あの糸が今まで手元にあった糸なのかと疑うくらいアッという間に、空と畑の間を大きく揺れながら空に向かって伸びていく、おおおおっちょっちょっちょっと待ってっとすべての糸が伸び切る瞬間に、右手にくるくるっと巻いて左手で目の前の糸をつかむ。いきなり右手に糸が食い込んだ。

すげえ力!

上級生がやっているように片方で糸を持ち、もう片方で操作するが、遥か上空の凧は不安定で右に左に揺れている。

やばい落ちると、無我夢中で糸を右に左に引っ張り、かろうじてとどまったとホッとした次に逆方向に落ちかけ、すかさず引っ張りとどまりホッとの次にまた逆にを数回繰り返し、こんなきわどい瞬間の繰り返し無理!と思った途端に凧は積木がゆっくり倒れるように上空で横に倒れていくので、慌てて糸をたぐり寄せ短くして引っ張ると持ちこたえそうに見えながら、最後は墓場の中に勢いよく落下した。

今考えてみたら、この頃は小一か小二の頃なので、揚がっただけでもめっけもんだ。

ただあの時一瞬だったが、まるで自分の心の一部が空を舞っているような高揚感とあの強烈な糸の感触に震えるような気持ちを持った。

 

 

後、凧と言えば同じ頃に大きめの凧と一緒に石垣から飛び降りたことがある。

蒲鉾型の県営住宅の間には住宅と同じ長さの道があった。道の突き当りの石垣には、大人の背くらいのところに子供が立てる場所がある。自分はそこに立ち凧を正面に抱きかかえ、石垣の下に整列させた同級生と幼児たちに糸を張って持たせた。そう凧で飛ぶのだ!

 

1967年〘仮面の忍者赤影〗がテレビで始まった。赤い仮面に赤いマフラー。仮面越しでもわかる、したたるようないい男の赤影が、白影、青影と共に戦国の悪を倒す。もう終いには円盤は飛ぶわ、ロボットは登場するはわ、怪獣は暴れるわと奇想天外なんでもありの必殺時代劇!

超大人気で、赤影の衣装と刀で、青影の「だいじょう~ぶ」ポーズをして石垣の前で写っている自分の写真が残っている。

ドラマの中で赤影のピンチに必ず大凧に乗って登場するのが白影だ。それを見て凧は乗る物でもあると思っていた。

 

テレビのように大空を舞うのは無理でも、あの感じやりたい!

果たして飛べるか!子供の忍者たちに緊張が走る。オレは凧をもう一度しっかり抱き抱えると号令を発した「おら走れ!」走る子供。

すると!?

見事に、凧を抱えた自分は、ふわりと!

んな訳はなく、地面にドサッと着地した。

本人も白影のようになるとは思っていない、ただ、何かが感じられるのでは!?

今思えばつまりは浮力という事だろう。感じられなかった。

そしてこの大きさの凧では飛べないという事がよくわかった。

 

 

それからわずか後にあの凧が現れる、凧と言うかカイトと言うか。

親戚いとこが福岡に多いので、子供の頃から盆、正月にはよく福岡を訪れている。

母方の親戚がいる福岡市内の姪浜の辺りは今でこそ密集しているが、あの頃、室見川の西側は、開発されてない赤茶色の台地が広がっていた。

連れられて歩いた正月のある日、その場所で盛大に行われていた凧揚げをよく思い出す。

寒空にたくさんの凧が揚がっていた。

凧を揚げる難しさを知っていた自分には羨望に近い気持ちでその広場を歩いたが、その中でも脅威にも似た思いで見た凧がある。

高く揚がっている凧たちのさらに遥か彼方、雲にも届きそうな上空で、風を張り詰めながら見たことのない形の凧が揚がっている。

揚げているのはおっさんで、しかも座りながら揚げている。手元には凧糸を巻く木の道具を持っていた。

その後、日本で大ブームを起こすアメリカからやってきたゲイラカイトだ。

ひょっとしたら自分の記憶が少しずれていて、もうすでにブームの真っただ中だったのかもしれない。

そのおっさんはオレに操作する方の糸を握らせてくれた。きっとそのおっさんの横で、少年オレのなんじゃこりゃ感が半端なかったのかもしれない。糸は天空と結ばれているようにピンと張って墜落の可能性は皆無のようだが、墜落の幻影が頭にはっきりある自分には怖く、ほんの少しだけ握った後すぐに返した。

ゲイラカイトはNASAで開発された凧という触れ込みで子供たちの間でも相当流行ったが自分はなぜか手にしなかった。流行るとなぜかそっぽを向いてしまう自分の性格がその頃からあったのか、もしくはやはり幼き日の凧揚げの墜落の記憶が強烈だったのかもしれない。

 

 

〖仮面の忍者赤影〗からじわじわ来ていた凧揚げの流行は、ゲイラカイトで爆発してその後、独楽、メンコと共に日本の冬の風物詩からすっかり消滅した。

子供にしてみれば、そりゃあゲームの方が面白いに決まっている。

もしあの当時スマホゲームがあれば、自分たちも独楽、メンコ、凧揚げには見向きをしなかったろう。その証拠に中学の時に出たインベーダーゲームは瞬く間に日本中に広まり、それまでの日常の遊びはいきなり色あせた。

自分もいっちょ前にゲーセンに入り浸った時もあり、あの頃のゲームは今でも結構得意だ。

だがその中毒性に気づき、一時期ゲームに批判めいた事を感じた時もあるが、ある時プレイステーションなどのゲームにはまっている後輩と接した時、集中力と動体視力が良くて車の運転がやけにうまいのに驚いたり、手先の速さとリズム感の良さに「すげー!」と感心するようになったり、又今はご存じのようにeスポーツがあり、その瞬時の判断力で、ゆくゆくはこれから国運を担うようなエスパー的存在になる人も出てくるだろうと思っている。

オレも中毒になるくらいゲームにはまった時代があってもよかったかもしれないなんて思う今日この頃だ。

ただそうは理解しているが、やはり独楽やメンコそして凧揚げに夢中になれた記憶を持てた事はすこぶる嬉しく、自分がテレビゲーム前夜の子供として育った事はラッキーだった。