湧flow -28ページ目

ブーバー!!!

マイブーム到来の兆しです(^.^)。

たまたまアマゾンの検索でヒットして目次を見て、「どうしても、どうしても読みたい!」という衝動に駆られて購入した「ブーバーに学ぶ 『他者』と本当にわかりあうための30章」(斉藤啓一著:日本教文館)。

マルティン・ブーバー(1878-1965)というユダヤ人哲学者の生涯、その背景、そして著作を紹介する本です。このブーバー哲学の根幹をなすのが「我-汝の関係」。
「我-汝の関係」とは、我=私が、汝=他者(人に限らない)を心から尊重し、大切に遇するときに生まれる関係で、これに対して、私が他者を自分のために利用しようと接するときには、「我-それ(モノ)」の関係になるとのこと。

自分を顧みると大半が「我-それ」の関係で、心が痛みました。でも、ほんのいくつかですが、もしかすると『我-汝』の関係が成立していたんじゃないかな…と思えるものもありました。

それらは、今思い出しても涙が出たり、温かな思いがよみがえるような、幸福感を伴う経験です。

なるほど、「このような経験をできるだけ多く積み重ねていけば(もしくはすべてが「我-汝」の関係であれば)、皆が幸福になれる」と言うのかな…と思いつつ、今、この本を読み進めています。
久々に本を読んで泣けて、また感動した言葉をじっくり味わえる、とても手応えのある出会いでした。これから少しブーバー自身の著作も読んでみますクローバー

オープンエンド

オープンエンド。どこまで行っても終わりにならず、次があるということなのだそうです。今日の朝日の「仕事力」ってコーナーで、茂木健一郎さんが語ってました。
この方、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で司会をしていらっしゃるのを何回か拝見して、「このもしゃっとしたヘアスタイルの人は誰だろ?」程度にしか思ってなかったのですが、東大、ケンブリッジを出て、脳の研究をされている東工大の先生なんだそうです。

その時だけの快楽は、脳にとってはつまらないもので、容易には得たい結果が得られない「オープンエンド」なことを楽しむことこそ、脳の本当の「快」なのだとか。よくいう「自分探し」っていうのは、実は「オープンエンド」探しなのかもしれませんね。

「これまで」にも書いたのですが、今の私にとって「描くこと、つくること」は「快」であるときもあれば、「苦」であるときもあります。
今まで「苦」だと思っていたのは、容易に結果が出ないためでした。これをも楽しめるようになったとき、本当の喜びを手にできるのかもしれません虹

水と緑と紫と

夏のような陽気の中、小石川後楽園内の木々がつくる陰と木漏れ日、今が盛りの菖蒲を楽しんできました。
さまざまな形と紫色の菖蒲の花は、ちょっとお高い美女たちがそろって「どうよ」といった感じで咲きそろい、「ははぁ、拝見させていただきます」と鑑賞し、遠慮がちにスケッチ。まさに、「絢爛」「あでやか」という言葉が似合う風情でした。

後楽園を訪れるのは初めてでしたが、さすが水戸様のお庭。全体の構成、庭内の橋などの建造物と、その細部のつくりに、質の高さを感じます。震災等で消失または倒壊したという建築物がいくつかあり、今は跡しか残っていないのが、とても残念。また、敷地の広いこと!
明日は雨が降るというので、今日は花のはしごをするつもりで家を出たのですが、移動する時間があまりないことに気づき、内庭にさしかかったところで、はしごは断念。木陰に腰を下ろして、池の蓮の葉の陰影を追ってすごしました

緑とほどよい運動で、結構リセットできました。
先日入手したお気に入りの漢和辞典をなにげに開いて眺めていたら、「生い茂った木を見て、生命力を強めることことを『魂振りの儀礼』といった」との記述が…。なるほど、木からパワーもらったらリセットできるはずですね(^.^)。
これから、しばらく庭園、植物園、動物園めぐりを楽しみます
あじさい

赤、青、そして紫

へ、て…


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リセット

制作で一番苦労するのは、テーマの設定でも、構図や色の選択でもなく、「こころ」を制作モード切り替えることです。
長年、描くことから逃げ続けていたので、その姿勢が染みついており、「描けないんじゃないか?」「前の方が良かったって言われたらどうしよう?」などと、恐れや不安が次から次へ…。
さすがに個展数ヶ月前になると、「そんなこと言ってらんない!」と、そちらに傾くことはほとんどなくなりますが、まだ時間があるうちは、気負いや不安を取り除くためのリセットが必要。
まずは、「いいものつくりたい」という気持ちを可能な限りなくして、リセットして0になるために、思いつくことをいろいろやってみます。

今日も、「そう、原点に戻るんだよな、原点に…」と思った瞬間「んっ?」と頭にひっかかるものが…。「なんで『原』なの?原点、原因、起原、原価、原風景…。これらの言葉から推するに、大元って意味だよね。よし、帰りに本屋によって『原』調べてみよ。ん、待てよ。何で『原っぱ』も『原』なの?うん、これも何か意味あるかも」

神保町の書店で、以前買おうかどうか迷った漢和辞典(平凡社「常用字解」。装丁が美しい!)をGET。「原」を調べてみました。

           原

まず、「原」が、物事の「はじめ」という意味なのは予測通り。では、なぜ「はじめ」かというと、「原」という字は、崖の間から水が流れ落ちる形を表しており、谷川が始まるもと「みなもと」で、物事の「はじめ」とか「もと」という意味なんだそうです。滝ってことですよね。
おぉ、何だか個展のタイトルにしている「湧flow」に通じていて、いい感じ。これで、最初の「んっ?」は解決。
次の疑問は、なぜ「原っぱ」が、「原」なのか?これは、もともと狩猟の成功を祈る儀礼の意味の「げん、はら(とても難しい字でパソコンではでません)」という字があてられており、その儀礼をしていた場所が草原だったそうです。読みが「原」と同じだったため、いつのまにか「原」という字を用いるようになったとか。
これで、二つ目の疑問も解消(^.^)。

次は、象形文字からヒントを得た作品もいいかな…と思っていたので、漢和辞典も手に入ったことだし、しばらくは、いろんな文字を楽しんでみますニコニコ

青からみどりへ

た。
て、
















































































































画材(彫刻刀)

会社の帰り、先週研ぎをお願いしていた彫刻刀をとりに、清水刃物店へ。
このお店は、私の木版画の先生から教わったのですが、何でも棟方志功さんが生前ひいきにしていたところらしいです。
秋葉原から昭和通り沿いに6~7分ほど歩いていくと緑色の日よけのかかった清水刃物店にたどり着きます。店内の飾らない雰囲気や、客に媚びないお店の方の態度がとてもいい感じ。
「いい道具」を扱うお店に行くと、なんだか一人前になったな気分で背筋が伸びます。

先生曰く「初心者ほど良い道具を使った方が良い」。木版画を始めた頃は、小学生が使う彫刻刀の延長のセミプロレベルのものを使用してましたが、清水刃物店の彫刻刀を使って初めて、先生の言葉の意味がわかりました。
無駄な力を必要としないんですね。普通の文房具屋や画材屋で売ってる刀に比べると、安くはない,でも使うと、きちんとその価値を認めさせてくれる…そんな道具。それ以来、少しずつここの彫刻刀を買い足してます。

いい道具に報いる作品が作れるようになるといいなと思いますカメ

あげた手は…

個展を行い、サイトを立ち上げ、ブログをはじめ…、今、大通りの人混みに向かって「私は、ここでこんなことしてます」って、おっかなびっくり手をあげたような心境です。

10数年前、まだネットは「パソコン通信」と呼ばれ、おたくの趣味と言われた時代のこと。私はこの「パソコン通信」にどっぷりとはまり、中古のワープロ専用機で掲示板の書き込みを読んだり、返事をつけたり,連句を教えてもらったりして楽しんでいました。
しかし半年くらいたった頃、出入りしていたSIG(死語(^^;))が荒らされたり、顔の見えないコミュニケーションの難しさを痛感することに。このため、これまで、ネットで知らない人や身元のわからない人との接触は極力避けてきました。
冒頭の「おっかなびっくり」は、これが理由です。

「これまで」にも書きましたが、昨年から制作を再開して個展を開く活動をはじめました。来てくださる方は、大半は私か身内の知り合いでしたが、作品を通して初めてお目にかかる出会いもありました。予想外だったせいもあるとは思いますが、この方たちからいただいた言葉は、とてもとても大きな励ましとなり、また「描き続けること」への動機付けになっています。

ネット上での知らない方との出会いにリスクがあることはこれまでの経験から十分承知。ブログを始めるにあたって、躊躇しなかったといえば嘘になります。でも、個展を通して初めてお目にかかった方との出会いのように、ネットならではの出会いもきっとあるはず!
それを信じて、手をあげようと思います(^.^)パー

これまで -今、そしてこれから-

昨年(2005年)、虎ノ門で初めて個展を行ったことで、久しく会っていなかった友人・知人に会えたり、普段仕事で接している会社の同僚などと、いつもとは別の面でのコミュニケーションができました。
今年(2006年)、大洲の山荘画廊で行った二度目の個展は、長い年月を経た懐かしい出会い、観光で大洲を訪れ、画廊に立ち寄ってくださった方との新しい出会いから、「縁」の意味と大切さを感じた六日間でした。この出会いからは、今後の作品づくりのきっかけもいただきました。ふるさとを流れる肱川の流れ、冨士山や遊覧道路、そこに繁る木々や花々からは、制作のもととなる力を得ることができました。

「個展」という目標に向けて、パワーを作品にして会場に投入し、訪れてくださる方のエネルギーも加わって、一時的な「場」が生まれ、会期が終わり、すべてを撤収して結集したエネルギーを解き放つ…そんな経験でもありました。空になった画廊を振り返り、静かにその空気を感じました。

二度目の個展の準備も最終段階にさしかかった4月の半ば、アートのワークショップでお世話になっているRBR(ライトブレインリサーチ)の方から「個展をやることに興味はないか?」というお話をいただき、二年後の2008年に東京麻布で三度目の個展をやることを決めました。
今、どんな個展にしようかと構想を練り始めたところです。

しばらくはこのような形で表現しながら、いつしか、こんこんと湧き上がり流れるもののように、何の気負いもてらいもなく、ただ、自然に描き続ける自分に出会えればよいなと思います。

これまで -再びのはじまり-

今まで蓋をしてきたものに気付いてしまった以上、後は行動するしか解決方法はないのですが、描こうとしてちょっと辛くなってはやめ、どうすれば辛くなく描けるのかを試行錯誤する日が続きました。
イラストレーターをしている友人の個展の手伝いをした時のこと、「個展をやりなよ」と言ってくれたその一言で、まずは「個展を開く」ことを目標に置いてみようと決めました。
決してスムーズに事が進んだわけではありません。でも、ただひたすら「個展」という目標に向かって作品をつくり、なんとか開催にこぎつけました。

今の私にとっての「描くこと、つくること」は、必ずしも快いだけの行為ではなく、かといって辛いだけでもなく、つくる過程の中で、一瞬の色の美しさや微妙なところできまった構図のバランスを味わったり、「ここまで」という感覚を得て、筆を置く瞬間に充実感を得たりすることもできるようになりました。
このように作品をつくりながら、また個展開催の体験から、おぼろげながら見えてきたものは、絵を描くということは、等身大の自分を表現する作業だということ、そして、それを観ていただくというのは、己の姿を受け入れるという行為であるということ。
個展会場に並べた作品は、今の私の力で一生懸命に準備を重ねてきたつもりですが、完璧な作品かというと、そうではありません。ただ、これらが「今の私」です。「いいな」と思ってくださる方もいらっしゃれば、「足を運んだ価値もないな。時間がもったいなかったな」と思われる方もいらっしゃるでしょう。一旦形にして表に出すと、観てくださる方の感じ方をコントロールすることはできない、そこから先はどんな風に感じられようとも私は自分の作品を手放して、作品と観る方の間で起こったことをそのまま受け入れざるを得ないのです。
自分で自分の作品を受け入れる、観てくださる方の感じ方を受け入れる。これが、私が描くこと、描き続けることの意義だと思っています。