【歴史考察】謎の今川彦五郎 ~中編~ | 李厳さんの独り言

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どうも、李厳です。



皆さん、新年明けましておめでとうございますm(__)m


今年もよろしくお願いします。




さて、前回の続きです。


天文五年(1536)317日、駿河の今川氏輝とともに死んだとされる今川彦五郎。


静岡大学の小和田哲男名誉教授らが唱える、『彦五郎=氏輝の弟』とされる説に対する反論の途中でした。


家督争いを経験している氏親が、嫡男につけられるべき『彦五郎』の通称を、嫡男氏輝以外の兄弟につける訳がない…という所まででしたね。





…では、氏親死後に元服して彦五郎を名乗ったのでしょうか?






【3、氏親死後、元服時に『彦五郎』の通称を与えられる人がいない】


これは、とても難しい話です。

嫡男候補とも言える『彦五郎』の通称を、氏輝を差し置いて名付けられる人がいないと、話になりません。



まぁ 一応、氏輝の母寿桂尼(じゅけいに)だけは、その権限を有していたといっていいでしょう。


寿桂尼は夫氏親死後、氏輝が20歳になる頃まで、今川家の政治的決裁を行なっていた、戦国時代の女性としては珍しい【女戦国大名】です。



当時の今川家に、それが許容される体勢があった事に驚きますが、ともあれ彼女の良識的な判断力と、夫が遺した『今川仮名目録』という規範が、氏輝が一人前になるまでの時間を作ったと言っていいでしょう。




繰り返します。

寿桂尼には、確かに実子に『彦五郎』をつける権限はありました。


しかし、権限があったのと、実際に行う事ができるというのは、別問題です。


氏輝が当主としてやっていこうとしている側から、実母が万が一、氏輝が死んだりしたら、お前が当主だよと、弟に『彦五郎』を与えたとしたら、氏輝はたまったものではありません。


それこそ、家中を混乱を招きかねませんからね。

故に、氏親死後に『彦五郎』を名乗れたとも思えません。





【4、氏親の葬儀に参列していない】


しかもこの彦五郎、氏親の葬儀の参列者を記した『今川氏親公葬記』には、名前が見えません

この時代の現役大名の葬儀には、新しい家督者の顔見せ興行という意味合いが、多分に含まれていました。



「我々は、この新当主の元で、一丸となって頑張ります」という晴れ舞台に、どんな理由であれ、参列していない彦五郎に、家督継承の芽があったとは、どうしても思えないんです。


ちなみに、『花倉の乱』で争った氏輝の弟は、「善徳寺御曹司」(今川義元)と「花蔵之御曹司」(玄広恵探)と記されております。




【5、他の弟が僧籍に入っているのに、出家していない】


もっと言いましょうか?

家督争いが起きない為に、弟たちを僧籍に入れるやり方は、足利将軍家によく見られるやり方です。




おそらく今川氏親も、このやり方を見習って、義元や玄広恵探らを僧籍に入れたのだと思います。






ですが、これ…一人でも僧籍に入っていない者がいたら、意味がないんですよ。


なんだかんだで、跡継ぎの定まっていない若い大名が急死する事はあります。

そうしたら、僧籍に入っている弟を還俗させて当主を継がせるというのは、珍しい事ではありません。



弟たちを僧籍に入れるのは、要は次期当主が跡を継ぐまで、他の候補者の家督継承権を排除する為の手段なんです。



病弱な当主だからといって、補欠を出家させない必要はない訳ですよ。

万が一の際は、出家している弟を還俗させれば良いだけの話ですから…


ところが、小和田氏は、自身の著書『今川義元』(ミネルヴァ書房)において、



氏輝が仮名五郎であり、その弟が彦五郎というのはありうる。

彦五郎も、今川氏にとっては由緒ある名前で、名前から推して、僧籍には入れられていないし、家督継承候補者の一人であろう。

つまり、家督は長男の氏輝がついだが、父氏親、あるいは母寿桂尼のはからいで、健康面に不安のある氏輝にすぐ代わりうる人物として、次男の彦五郎を同じように駿河今川舘に置いたものと思われる。

そしてそのように理解すれば、確証はないが、この彦五郎も寿桂尼の産んだ子どもだった可能性が高い。



と、説明しています。

まったく納得できませんね



家督継承候補者の一人』というのは、あくまで氏親が死ぬまでの話です。

氏親が死んで氏輝が跡を継いだ後は、家督継承候補者の一人であろうはずがありません



大体、病弱の氏輝が死ぬ事を前提に話を進めているのがおかしいです。



仮に氏輝が本復した場合、彦五郎はどうなるのでしょう。

一時は、家督継承候補に名を連ねたほどの弟を、どう処遇するんですか?



江戸時代の大名とは違い、『今川領=全て氏輝の土地』ではありません。


自分の後継者たりえた弟に、申し訳程度の土地はやれないし、直轄地を大きく割いて土地をやったら、今川宗家の勢力が削がれてしまいます。


といって、今更出家しろなんて言ったら、それこそ大乱が発生しますよ。



確証はないが、この彦五郎も寿桂尼の産んだ子どもだった可能性が高い』?




当たり前です。


同母弟の義元が僧籍に入れられていて、側室から生まれた次男を、後継候補として『彦五郎』と名付ける事を、寿桂尼が許すはずがありません


仮にそうだとしたら、

氏親は自身の体験を、まったく反省材料にしなかった事になりますね。



その上

繰り返しますが、候補者として『彦五郎』の名を持った別腹の次男は、氏親の葬儀に出席していないんですよ。

そんな事されたら、彦五郎の傅役の家が黙っておらず、氏親死後に大乱が起きるはずです。




当主氏輝の他に、『彦五郎』を名乗った僧籍に入っていない弟…

これがどれだけ異常事態か、お判りになったかと思います。





実は嫡男と弟一人だけ出家させずに、それ以外の弟たちを出家させた…という先例は、一応あります。


三代将軍足利義満の嫡男義持とその弟義嗣、それ以外の弟が出家…という形が、それです。


義嗣の場合は、一旦出家したにもかかわらず、父義満の寵愛で還俗した…という経緯がありますが、その結果どうなったか?



義満の死後、見事に御家争いが起きました


まぁ、御家争いというほどではなかったですが、義持は還俗してきた弟が、悩みの種になったのは間違いありません。











…以上、見てきたように、今川彦五郎を今川氏輝の弟とするには、あまりに不自然な点が多すぎます。



ちょっと長くなってしまったので、この話は3部構成にさせていただきます。

次回は、小和田氏がずっとこの『彦五郎=氏輝の弟』説を採用している理由について、考えてみたいと思います。



今回は、こんな感じで…