【歴史考察】謎の今川彦五郎 ~後編~ | 李厳さんの独り言

李厳さんの独り言

日本史を中心としたブログです。 まったり地道にやっているので、アクセス数目的のペタやマイブログへの引き込みコメントはご遠慮下さい。 また、何もプロフィールが書かれていない方のアメンバー申請はお断りさせていただきます。 ご了承ください。


どうも、李厳です。

また日を置いてしまいました。




さて、前回の続きです。


今川氏輝と同日に死んだとされる今川彦五郎…


現在、定説と化している『彦五郎=氏輝の弟』説を、状況的に否定してみた所まででしたね。





今回は、氏輝の弟説を謳う現代の今川氏研究の第一人者、小和田哲男氏の論拠と矛盾に迫りたいと思います。





まず論拠ですが………これは、まぁ簡単です。

今川氏輝の死亡記事ってのは、現在4つが知られておりまして、内2つは前々回に紹介した『高白斎記』と『為和集』でした。



他に、『快元僧都記』と『妙法寺記』という史料が、氏輝の死亡を記しております。



十八日、例の建長・円覚の僧達、今川殿の不例の祈祷として大般若を読まる。 しかるに、十七日ニ氏照死去注進の間、即夜中、経席を退かれ了。 今川氏親の一男也。 

(『快元僧都記』・「今川義元 小和田哲男著ミネルヴァ書房刊」より抜粋)



此年四月十日、駿河ノ屋形御兄弟死去めされ候。

(『妙法寺記』・「今川義元 小和田哲男著ミネルヴァ書房刊」より抜粋)





この内、『妙法寺記』の文章において、『駿河ノ屋形御兄弟死去めされ候』とあるのを、小和田氏は論拠としている訳です。







「なんだ、史料に書いてあるなら、それが真実なんじゃないか」






…そう思われる方も多いと思います。

しかし、この史料には問題点があります。





それは、年月日が『此年四月十日』になっているという点です。




氏輝が実際に死んだのは3月17日。 それに対し、4月10日は22~23日後…



誤差にしては、あまりに大きいとは思いませんか?




一応、この頃の史料では、同じ記事が日付1ヶ月ずれる例はあります。


…というのも、地方によって採用されている暦が異なった為、場所によって閏月でまるまる1ヶ月ずれる事はあり得たからです。





…しかし、3週間ずれるという事は、絶対ありえません



なぜなら、この時代のどの暦も太陰太陽暦であり、月の満ち欠けで日付が決められている為、十五夜が必ず満月になるからです。





さらに注目すべきは『此年』の文言。


普通、タイムリーに書かれた死亡記事には、見出しに「この年…」とは書きませんよね?




つまり、この記事は後年に書かれた物である可能性が高い訳です。




どれほど後に書かれたかは判りませんが、この『妙法寺記』に限らず、お寺の年代記はえてして、当時書かれた他の史料と、記事の日付がずれる傾向があります。




尾張国の『定光寺(年代)記』が、良い例ですね。


さらに、隣国の噂がどれほど曲解して伝わるかは、先日書いた『【歴史考察】戦国時代のお金について』の中でも、『多門院日記』の記事のあやふやさで指摘しました。






少なくとも、当時書かれた『高白斎記』(この記事に関しては)と『為和集』には、兄弟の文言がないので、『妙法寺記』だけでは、『彦五郎=氏輝の弟』説は成り立ちません。


加えて、後年書いた人が氏輝と彦五郎は兄弟であると勘違いした可能性は、指摘すべきだと思います。





とすると、『妙法寺記』以外に彦五郎を氏輝の弟とする史料はないので、これにより『彦五郎=氏輝の弟』説は覆るはずなんです。





むしろ否定史料があるくらいです。



『今川記』では、今川氏親の息子は3人と記しておりますが、小和田氏は息子は6人であるとの説を提唱しております。



『今川記』の説では、確認が取れている


氏輝

玄広恵探

義元


の3人で間違いない訳ですが、小和田氏はそれに加えて、


彦五郎

象耳泉奘

竹王丸(氏豊)


を兄弟とする説を取っています。




彦五郎は説明した通りですが、象耳泉奘は従来の説では義元のではなく、氏真の兄弟とする説があります。


…もっとも象耳泉奘は、天正十六年(1588)に71歳で没したとする史料が幾つかあるので、生年は1518年であり、義元の一歳上になります。



竹王丸(氏豊)は、天文初期の尾張国那古野城の城主であり、後に織田信秀によってだまし討ちで城を奪われる人物です。


氏豊はその後、京に上ったとも駿河に逃げ帰ったともされておりますが、山科言継の日記では、後に駿河へ下向した際に逢ったと記しております。



竹王丸については、また別の機会に書くつもりです。



いずれにしても、象耳泉奘にせよ氏豊にせよ、彦五郎同様、今川氏であるという史料はあっても、氏輝の兄弟とする史料は絶無なので、氏輝の兄弟は氏輝・玄広恵探・義元の3人で間違いないと思います。






…では、彦五郎とは誰か?






ウィキペディアでは、彦五郎の解釈について、



1、彦五郎=氏輝の弟説(定説)

2、彦五郎=氏輝自身説

3、彦五郎=氏輝の子説



の三つを挙げております。



2に関しては、『為和集』と『高白斎記』という、まったく接点のない二つの史料が、共に『同彦五郎』と別人枠で書いている点からも、同一人物説は考えにくいと思っております。


…それに、この時点で氏輝は「上総介」を名乗っていますから、誤って世間に伝わるにしても、「彦五郎」ではなく「上総介」で周囲に広がって行くはずです。




最後に、3の『彦五郎=氏輝の子』説ですが…




これが一番、矛盾がないんですよ。


氏輝は、享年24歳で没しましたが、この時点で長男がいても、おかしくはない年齢です。


仮に氏輝が病に倒れ、それが命に係わるレベルであれば、幼い嫡男の元服を急いだとしても、おかしくはありませんし、『彦五郎』を名乗っても、何一つ不自然はありません。





…というより、名乗りは絶対『彦五郎』でなくてはいけないはずです。




氏輝と同日に死んだ点に関しては、まぁ謀殺されたとみるのが順当ですかね。



氏輝は死ぬ直前、相模の北条氏網を尋ね、その帰りに熱海の温泉に寄っている記事から見て、この時点で病に倒れるほど深刻な状況だった訳ではないようです。



むしろ、帰ってきた直後に死んだ事から、



氏輝、旅先で病を得る

   ↓

氏輝、病重く後継者問題生まれる

   ↓

氏輝の嫡男、慌てて元服。彦五郎を名乗る

   ↓

氏輝死去

   ↓

彦五郎、同日に謀殺される



という流れだったのではないでしょうか。


少なくとも小和田氏のように、彦五郎を氏輝の弟と断定した上で、彦五郎の存在を消すかのように、各史料が後に改竄された…とする説よりは、まだ自然な流れではないかなと考えます。




ただ、氏輝の死にも、気になる事があります。




氏輝の時代までは『親北条、嫌武田』路線でした。


ところが、花倉の乱後に義元が家督を継いで最初に行なった政策が、北条氏網を無視して武田との単独講和→甲駿同盟だった為、怒った氏網に攻め込まれて駿河の河東地域を奪われてしまいます。



北条氏網を怒らせてまで、武田信虎との講和に踏み切りたかったのは、なぜでしょうか。


武田信虎も前年の今川・北条連合軍との戦いで、弟が戦死している為、感情的には面白くなかったでしょうが、諏訪家攻略を第一義としていた信虎には、後顧の憂いをなくす意味でも有意義な話ではありました。




つまり、今回の氏輝と彦五郎の死の裏には、親北条路線から親武田路線に切り替えたい勢力が存在し、その勢力が家督争いで義元側を勝たせたと考える事はできます。








話が大きくなりましたね。






ともあれ、私は3の『彦五郎=氏輝の子』説が正しいと思います。








今回は、こんな感じで…