【歴史考察】日本の朝廷官職の説明 | 李厳さんの独り言

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どうも、李厳です。

今回は、朝廷の官職について説明しようと思います。



元々私の日記は、朝廷・官位絡みの記事が多いので、文章だけでは官位等の意味合いが伝わりにくいかなと思い、今回は朝廷の官位を説明する事にしました。

さて…

我が国における律令制の官位とは、古くは飛鳥時代にまで遡り、近くは明治初頭まで存在したもので、我が国の歴史の大半は、律令制下での時間経過であると言い切る事ができます。




…ま、面倒な前置きは、これくらいにしましょう。
主に上からの順番は、朝廷における序列と考えて下さい。



関白・摂政
太政大臣
左右大臣
内大臣
大納言
中納言
参議
侍従


…まぁ、一つずつ説明していきましょう。



【関白】
天皇が携わるべき国政の代理者にして、百官を統べる者です。

関白は、基本的には国政を司る太政官による朝議には出ません。

その代わり、朝議で採決した議題の決議を、天皇に裁可を得る為に文章にして提出した際、天皇に先んじてその内容を確認し、その決議の合否の判断する事を許された職です。




王政時代のよその国と日本が一番異なる点…

それは建て前上、「天皇が朝議に直接案を出す事が許されていない」事です。


勿論、天皇自身の意思は、お気に入りの延臣に朝議で発言させれば良く、気に入らない決議であれば、否決する権限もあるのですが、天皇とはいえ、率先して一人で考えて一人で決める権限はないのですね。


…ここを判っていないと、日本の朝廷という存在が掴めない事でしょう。



さて、政治を司る太政官が天皇に提出した議決文書を閲覧する権限を、「内覧(ないらん)」といい、関白には必ずこの内覧権が与えられます。

しかし、中には「内覧」だけ与えられた人(当初の藤原道長など)もいるので、「内覧=関白」という訳ではありません。




【摂政】
天皇が政務を執れない状況において、天皇に代わって政治を決裁する職です。


一般には天皇が元服前で幼い場合が大半ですが、推古天皇の時の聖徳太子などは、女性である天皇に代わって政事をまとめるという意味合いと、当時は皇族しか摂政になれなかったので、『次期天皇候補』という意味合いも兼ねておりました。


近い話では、昭和天皇が皇太子時代、父大正天皇の健康の容態が思わしくなくなった大正十年(1921)から摂政となり、天皇の国事行為を代行するようになった例もあります。


天皇の代替わりで次の天皇が幼かった時や、天皇が元服した際は、「摂政→関白」という事がありますが、この場合は形式上、一旦官職を辞してから再び拝命するというのが通例でした。  これを復辟(ふくへき)と言います。




よく、「関白」と「摂政」の違いが判らないという人がいます。
…が、これは学校の授業が悪いんですね。


学校で摂政と関白を覚えるのは、ほぼ平安時代の『摂関政治』の時代を習っている時だったと思います。

ですが、この頃は天皇が幼かろうが成人していようが、藤原氏が天皇から内覧権を奪って政治を主導していた「関白=摂政」という時代なので、違いが判りにくいんです。



中学はともかく、高校の日本史の授業ぐらいになったら、時代の流れ以前にここを教えるべきだと思うのですが…




【太政大臣】
国の政事を司る太政官を統べる職であり、国政の最高責任者です。

中世においては、関白は血筋でなれましたが、太政大臣は優れた資質を持っていると周囲に判断されないと、なかなかなれるものではなかったので、適任者がいない場合は欠官とされました。


古代において、臣下の立場では藤原仲麻呂が「太師」という名で拝命したのが最初であり、弓削道鏡も出家の身分でありながら、「太政大臣禅師」という肩書きでなっております。

また、平清盛や足利義満もなっているので、必ずしも藤原氏のみが独占していた官職ではありません。


唐名を「相国」といい、三国志の時代の董卓が名乗っていたあの「相国」の事です。

また、職制においては唐の令の三師(太師・太傅・太保)と三公(司徒・司空・太尉)を全て兼ねる存在なので、権限がとても集中した官職でした。





【左大臣・右大臣】
太政官の最高位は太政大臣ですが、これは必ずいる訳ではないので、太政大臣がいない場合は、左大臣が朝議を総裁してました。

もっとも、左大臣は関白を兼ねる事が多く、関白を兼ねると朝議に参加出来ないので、右大臣が事実上の議長でした。

唐名で左大臣を「左府」、右大臣を「右府」といいます。

右大臣だった信長の事を、「(前)右府」と呼ぶ当時の史料も多いですね。








ちなみに「左右」は、日本では左が上位ですが、中国では右が上位になります。

この日本の『左上位』という思想がどこから来たのかは不明ですが、この風習は今日、とても重要な意味を持っています



よく、日中首脳会談などのニュースを観ると、日本の総理が中国共産党の主席に近づいて握手するシーンでフラッシュがたかれますが、この時は「必ず日本が左」なんですね。

一昨年の暮れ、中国の副主席が天皇陛下に直前アポで会談したという件がありましたね。

通常、陛下のスケジュールは一ヶ月前に定めるべきを、例外としてセッティングした事で紛糾していましたが、実はこの会談時も、天皇陛下の椅子が左側で、中国共産党副主席の椅子が右でした。

日本が左側で中国が右側だと、お互いが自国の風習的に上座にいるので、メンツに傷がつかないんですね。



しかし、これが北朝鮮とか韓国だと大変です。

朝鮮半島には当然中国文化の名残りとして、「右が上」という風習が残っている為、日本と会談する場合は、日本が常に左についてくれるから問題ないものの、中国相手だと両国とも自分が下座である左に回らざるを得ないんです。




…閑話休題。

【内大臣】
仕事は左右大臣と一緒です。 大宝律令以前は左右大臣よりも上でしたが、一旦廃せられた後、奈良時代末期に左右大臣の下のポストで復活しました。

唐名は「内府」。
…徳川家康の呼び名として有名ではないでしょうか?




【大納言・中納言】
朝議を主導する人員であり、下からの報告を受けて天皇に報告したり、天皇の勅命を下に下す役割を持った人員です。

平安時代に徐々に増えてきたので、鎌倉時代の後鳥羽上皇の時代に大納言6人、中納言8人と決められました。

しかし、公家の分家が増えるにつれ、それでは足りなくなってきたので、室町時代には両方とも12人前後になりました。


ちなみに、権大納言(ごんのだいなごん)・権中納言(ごんのちゅうなごん)の『権』は、警部補の『補』みたいなものです。

室町時代以降、大納言は全て権大納言、中納言は全て権中納言で任ぜられるようになりました。


唐名は大納言が「亜相」、中納言が「黄門」です。
ご存知『水戸黄門』とは、『水戸の中納言』という意味です。

東野英治郎が水戸光圀を演じていた第一期の『水戸黄門』では、印籠を構える際、

「こちらにおわす御方をどなたと心得る! 畏れ多くも前中納言(さきのちゅうなごん)水戸光圀公にあらせられるぞ!!」

と言ってましたね。

第二期以降は「前の副将軍」にセリフが変わってしまいました。





【参議】
朝議に参加できる立場の職です。
なれるには、

1、蔵人頭経験者
2、左右大弁経験者
3、近衛中将経験者
4、左中弁経験者
5、式部大輔経験者
6、五カ国以上の国司を勤めた者
7、従三位以上の者

のいずれかをクリアーしてないとなれません。

唐名を「宰相」といいます。
池田輝政を「姫路宰相」といったのは、彼が参議だったからですね。




【侍従】
天皇に近侍し、細かい点などを補助する役割。
秘書のようなものです。

元々、少納言がこのポジションだったのですが、少納言の仕事を蔵人が行うようになって以降、存在意義がなくなった少納言は消滅しました。

替わってその立場にあった者が侍従に任ぜられるようになったのです。
唐名を「拾遺」といいます。

「侍り従う」と書くように、太刀を刷く事が許され、平安時代までは大臣などの子が選ばれてましたが、後には源平の武士が選ばれるようになりました。








…といったように、全て中国の官職を模して作られているんですね。

今回、書いた内容がWikiとかぶっていますが、これはWikiを書いた人が、おそらく私が参考にした本の新訂版を書き写した為でしょう。

その本にしか書かれていない間違いもそのままですから…


今回は、こんな感じで…