歴史探偵 諏訪欧一郎の事件簿 ~織田家の先祖たち~ 第一夜 | 李厳さんの独り言

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神崎「さて、初回の今回は、何を説明していただけますか?」

諏訪「お、珍しく今回は神崎君が口火を切ったな」

ケン太「まずは【織田家の出自】じゃない?」

諏訪「ほう…さすがは自称探偵の助手。 …では、そのテーマで行くか」





……

神崎「織田家の出自と言いますと… …【氏】はどちらなんでしょう」


諏訪「織田家は『自家を藤原氏と信じていた』だ。 …以上!」


ケン太「あらら、それだけじゃみんな納得しないよ」




諏訪「【事実】に、よけいな説明はいらんだろう?」


神崎「何を以って、織田家は藤原氏と仰るんですか?」


諏訪「…以下の通りだ」


○明徳四年(1393)6月
織田家の祖とされる信昌・将広父子が、越前織田劒神社に奉納した願文に、【藤原信昌・将広】と署名(織田劒神社文書)

○享徳三年(1454)2月
尾張守護代、守護又代織田久長に命令書を下した文書に【藤原久嘉】と署名(尊経閣古文書纂)

○永正十五年(1518)10月
尾張守護代織田達勝が制札に【藤原達勝】と署名(熱田円福寺蔵)

○天文十八年(1549)11月
織田信長が、熱田八ヶ所村に下した制札に【藤原信長】と署名(加藤秀一氏所蔵文書)





ケン太「あれ? ちゃんと史料が残っているの?」


諏訪「これは一例。 他にもあるよ」


神崎「で、でも… 藤原信昌・将広や藤原久嘉は、史料内で織田を名乗っていませんよね?」


諏訪「確かに彼らは織田を名乗っていない。…が」


ケン太「が…?」


諏訪「状況証拠というものがある」


神崎「状況証拠?」



諏訪「うん。 例えば…織田劒神社は、本家が尾張に移ってからも織田の分家が管理していたし、織田家以外の誰かが尾張守護代になった形跡は、史料を付き合わせても存在しない」


ケン太「つまり、信昌・将広親子や久嘉が、織田家ではない証拠もないと?」



諏訪「さらに、将広は『兵庫助』を名乗っているが、

諱  = ○広
百官名= 兵庫助

というのは、後の尾張守護代『織田伊勢守家』の名乗りのパターンでもある」


神崎「なるほど。 ついでに織田達勝や信長自身も【藤原】を名乗っている以上、藤原氏である事は、間違いないと?」


諏訪「そもそも考えてごらん。 自家の氏神を祀る神社に納めた願文で、出自を詐称すると思う?


ケン太「…思えないね」


諏訪「素性を遡れないほど昔はどうだったかは知らないが、少なくとも信昌・将広親子の時代は、『自家を藤原氏と認識していた』という事で良いだろう?」







ケン太「…そういえば確か、織田家って忌部氏(いんべし)を名乗っていなかったっけ?」


諏訪「それは論外。 明治時代に多賀谷健一という人が『越前藩拾遺』という史料を典拠にした奇説に過ぎない」


神崎「ですが、結構有力な説と言われていた記憶が…」


諏訪「それは、織田劒神社がその説を支持したからだよ」


ケン太「ふ~ん。 あ、ちなみにさ…」


諏訪「うん?」


ケン太「信長は、なんで平氏を名乗ったの?」


神崎「そうよね? 何の脈絡もないのに…」




諏訪「それは、永禄十一年(1568)に上洛した際、朝廷を含めた京童たちに『織田とは何者だ?』と問われる事を想定したからだよ」


ケン太「何で? 正直に『藤原氏だぎゃ』って言ってやりゃあいいじゃん」


諏訪「ところが、朝廷の貴族は藤原氏ばっかりだから、さらに『自分、どこの藤原よ?』と訊かれたら、何も言い返せないだろ?」


神崎「そうですね… 下手に藤原氏の名家に結び付けられませんしね」




諏訪「そこで【桓武平氏高望流】という血筋に目をつけた」


ケン太「何で?」



諏訪「実はこの時代まで、貴族に【桓武平氏高望流】というのは、一家も存在しなかったんだよ」


神崎「清盛が死んで平家が滅んだ後は…ですか?」




諏訪「そう。 …一応、参議が極官の西洞院家というのが、【桓武平氏高棟流】を名乗っていた…が、」


ケン太「また、…が?」


諏訪「信長が上洛する永禄11年の段階で、西洞院家の当主時慶は、幼少という事もあって、まだ正五位上辺りをウロウロしていた」


神崎「それなら、文句はつきませんね」




諏訪「さらに時慶は、この頃伯父の家系である藤原氏を名乗っていたんだ」


ケン太「ますます問題ない」








諏訪「…まぁ、こんな感じかな?」


ケン太「てっきり、源平政権交代思想で、足利(源氏)の次は俺(平氏)という意味で、平氏を名乗ったのかと思ったよ」


神崎「あ、それ…聞いた事ある!」


諏訪「源平政権交代思想…ね。 …一応、否定しておくか」




「…天が下信(長)公になびかぬ草木もなき有さまは。先代にもそのためしいまだきかざりし事なり。その本系をたづぬれば、小松のおとゞ(平重盛)第二の後胤なれば。暑往寒來ことわりにて。今四百年の後立かへり。平氏の再榮ゆべき世にやとおぼえて…」(『美濃路紀行』より抜粋)



ケン太「な、…なんて書いてあるの?」


諏訪「『天下で、信長公に従わぬ者は草木すらない有様は、前の足利の天下でも聞いた事がない。 織田家の先祖はというと、平重盛の次男の系譜だそうな。 暑さが過ぎれば寒さがやってくる理の如く、400年ぶりに平氏の繁栄の世が来たのかなと思った…』」


神崎「あら? 源平交代思想が記されているじゃないですか?」


諏訪「よく読んでごらん。 400年ぶりに…と言ってるよね。 つまりこの作者は、その間の鎌倉執権であった北条家を平氏とカウントしていないんだよ」


ケン太「……あ」


諏訪「『源平交代思想』は俗説に過ぎない。 なぜなら信長は、他の名流に結び付けられなかったから、平氏を選んだのに過ぎないから…」









神崎「今回は、こんな感じですね」


諏訪「次回は、織田家が越前から尾張に入部した最初期から、迫ってみよう」


ケン太「ありがとうございました~」




~続~