歴史探偵 諏訪欧一郎の事件簿 ~織田家の先祖たち~ 第四夜 | 李厳さんの独り言

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諏訪「うがぁ! もうダメだぁぁ!!」

神崎「ぎょっ!?」

岩田「何事ぞ?」

諏訪「もう…もう3回も、下書きボツにしたヨ。 でも…うまく伝えられる自信ないヨ」

ケン太「知らんがな」

諏訪「という事で、今回から会話形式やめ!」

岩田「なんじゃと!? 前回華麗に登場したワシの立場はどうなる?」

諏訪「知らんがな」

ケン太「あぁ! 僕たちの体が、……からだが…消えてゆ…く…」

諏訪「消えてねぇよ! 器用な事するんじゃねーよ」

神崎「…という事で、今回からは文章で書きます」









……

どうも、李厳です。

今まで、模索しながら続けてまいりましたが、マイナーな時代の事績と、自説の展開を会話形式で進めるのは難しいと判断したので、こうする事にしました。
何卒、ご了承を…


さて…前回までの流れは引き継ぎましょう。

前回は、斯波義淳が死去したことに伴って、大和守系の右長が尾張守護代になった所まででしたね。



織田右長【1435頃~?】
 ↓
織田郷広【?~1441】
 ↓
織田久広【1441頃~1454頃】
 ↓
藤原久嘉【1454】
 ↓
織田敏広【1454~1459頃】
 ↓
織田輔長【1459~1460頃】
 ↓
織田敏広【1460~1476】
 ↓
織田敏定【1476~1495】



今回は、この赤字の時代です。


さて、斯波家では義淳の跡を受けた義郷ですが、兄の死から3年後の永享八年(1436)9月、三条中納言家からの帰宅途中、落馬して翌日死亡してしまいます。



義郷の跡目は、嫡男で数え2歳の千世徳丸(義健)が継ぎます。


【斯波家系図、Ⅰ】
義将

義教
┣義淳
┗義郷━義健(千代徳丸)


彼は、宝徳三年(1451)に元服して『義健』と名乗るまで幼名だった為、この(1436~1451)までの15年間に、斯波家中で元服した者は当然ながら、斯波家当主から偏諱を受けていません。


…では、どうしたか?


斯波家中ではどうやら、代わりに家中の実力者で越前守護代の甲斐将久(常治)から偏諱を受けていたようです。




これは斯波義郷の生前、織田家に『』の字をつけた人物が確認できない事からも裏付けられ、彼らは全員、永享八年(1436)以降に元服したものと考えられます。

具体的には、後の守護代織田久広や又代織田久長らが、その世代に該当します。




前回上げた系図を、もう一度見てみましょう。


【織田伊勢守家系図(推定)】
教広(常松)

淳広
┣郷広━敏広
┗久広


【織田大和守家系図(推定)】
朝長(教長)
┣右長
┗久長━敏定



ここの大和守家の久長というのは、後の平氏に祖先を求めた系図で、初めて名前が確認できる実在の人物です。


【織田家系図(平氏説)】
平清盛━重盛━資盛━親真━親基┓
┏広村━基真━末広━行広━親行┛
真昌常昌━常勝━教広━常任┓
┏信秀━信定━敏定━久長━勝久┛
┗信長


おそらく、平氏説の織田家系図を最初に作った人間は、久長の「久」を使って『勝久』なる人物をでっちあげて久長の父に当てはめ、そこから先祖を作っていったものと思われます。




また、この系図製作者は、斯波家に重用され始めた織田家の遠祖が、(シンショウ)と(ジョウショウ)父子だった事は知っていたらしく、織田剱神社に願文を残した藤原信昌・将広父子を、

信昌→真昌
将広→常松→常昌


としています。

将広を常松に見立てている点は、注目に値しますね。




さらに、常松の諱『教広』も先祖に加えている点を見る限り、平氏系図が頭からのでっち上げでない事も、併せて考えられます。



さて、永享十一年(1439)2月、守護代「織田」が尾張国六師荘の大円寺領内に「徳銭と申候て守護使打入、随財物、至馬牛・鍋釜まで報代責取」るという事件が起きています。(「建内記紙背文書」)


さらに嘉吉元年(1441)、同じ尾張国六師荘に、守護代織田某の被官坂井七郎右衛門入道が六師荘の代官と称して庄家に乱入・狼藉を働いた為、主君斯波千代徳丸を始め、甲斐将久や織田一族にまで絶交をされるという騒ぎがありました。




この守護代「織田」とは、織田淳広の子と推測される郷広という人物です。

郷広は、斯波義郷在世中の永享五~八年(1434~1436)までの約2年間に元服した人物と考えられるので、事件を起こした時もまだ20歳前後だったはずです。



結局、この事件が引き金となって、郷広は守護代から降ろされますが、郷広の不始末を尻拭いする形で守護代に就任したのは、郷広の弟とされる久広という人物でした。



伊勢守家系の尾張守護代がここで二代続いた背景には、嘉吉元年(1441)6月24日、「嘉吉の変」で将軍足利義教が殺された為、後援者を失った大和守家の勢威が減退していた事が想像されます。


この時期には、嘉吉三年(1443)3月に「大和守」(妙興寺文書)、同年11月22日に「五郎」(北野神社文書)という人間が、又代の権限を行使しています。



この内、「五郎」は後の織田久長と見て間違いなさそうですが、そうなるとそれ以前の妙興寺文書内の「大和守」は久長ではない事になりますね。

一旦、受領名を名乗り始めた人間が、ある時期から文書内で再び仮名に戻る事は、まず考えられないからです。



この「大和守」が誰かに関しては、教長や右長ら過去に守護代を務めた者が、又代の地位に甘んじるとも考えにくいので、久長より年長の大和守家の誰かであろうとしかわかりません。



伊勢守家の通字「」を持つ久広が、かつて大和守家系の教長が名乗っていた「勘解由左衛門尉」を名乗っている点はやや理解に苦しみますが、この後およそ10年間は、「守護代=久広」、「又代=久長」という両輪体制が続くことになります。


嘉吉三年~宝徳三年(1443~1451)頃まで

尾張守護   斯波千代徳丸(義健)
尾張守護代
  織田久広
尾張守護又代 織田久長



さて、宝徳三年(1451)に千世徳丸が元服して『義健』を名乗るも、直後に18歳の若さで没してしまいます。




これにより斯波宗家は血脈が絶えてしまう訳ですが、同年中に一族の持種の子義敏が跡を継いだので、これ以後織田家を含めた斯波家家臣らは、揃って『敏』の字を拝領するようになります。


【斯波家系図、Ⅱ】
┏義将━義教━義郷━義健
┗義種━満種━持種━義敏




守護代織田久広は、斯波義健が元服した前後に、史料から姿を消していますね。



ちょうどこの頃、守護代復帰を企てた織田郷広が、将軍足利義成(義政)の乳母今参局に接近し、局の意を受けた義成が、織田家家督に介入するという事件が起きます。



しかし、時の管領や斯波家中・義成の生母日野重子らの総反対に遭った為、義成は目論見を断念します。

この幕府中枢を巻き込んだ一件に絡んで、久広は守護代を辞したのではないでしょうか。



代わって新たに守護代となった「藤原久嘉」という人物は、残念ながらどの家の人間かを判別できる材料がありません。

案外、久広の改名という線も考えられます。


が、その久嘉も、主君義敏が斯波家の家督を継いでしばらくすると姿を消し、康正二年(1456)12月30日以前、父郷広を越前で殺した敏広がこの後の守護代となります。






久広と敏広が同一人物であると考える郷土史家もおられます。



が、久広は宝徳二年(1451)の時点で「勘解由左衛門尉」を名乗っており、敏広は初見の康正二年(1456)の時点で、「与次(郎か)」という仮名を名乗っている為、『敏広=久広』という事はあり得ません。





さて、次回は応仁の乱から戦国時代にかけての時代を見ていきましょう。


~続~