神崎「さて、始めましょうよ」
ケン太「やっぱり会話形式の方が良いんじゃない?」
岩田「そうじゃよ」
諏訪「ちょっと色々と考える所があってね。今回は趣向を変えてみた」
…
どうも、李厳です。
前回の続きですね。
今回は、応仁の乱時の斯波家中の話が中心になります。
時代は享徳元年(1452)、斯波義健が没して一族の義敏が、新たな斯波家当主となった所から始まります。
前回にも系図を上げましたが、義敏は分家の斯波持種の子でした。
【斯波家系図】
┏義将━義教━義郷━義健
┗義種━満種━持種━義敏━義良
この持種は、斯波家中の甲斐常治と不仲であり、息子義敏もその関係を引き継いだ為、(主君と家臣筆頭が険悪な仲)という関係を作り出しました。
当初、義敏の嫌がらせ程度で始まったいざこざは、やがて武力衝突となり、長禄合戦という乱を引き起こします。
甲斐常治には将軍足利義政の支持や、家中の朝倉家や織田家の後援もあった為、主君義敏との戦に勝った後に、家督を義敏の子松王丸(義良)に譲らせる事に成功します。
ところが、直後に甲斐常治が病死、2年後の寛正二年(1461)には幕府の都合で松王丸が家督を廃され、遠縁の渋川義鏡の子義廉が斯波家の家督に任じられるという事件がおこりました。
これには、堀越公方の古河公方に対する討伐軍の兵力不足に悩んだ将軍足利義政が、堀越公方執事である渋川義鏡の子を斯波家当主にする事で、斯波家の軍事力を関東征伐に当て込んだ…という背景があります。
もっとも寛正四年(1463)に義敏が将軍より赦免を受けた為、改めて斯波家当主に返り咲く訳ですが…
斯波義廉「おいおい、今さら『家督返せ』ってどういう事よ?」
斯波義敏「ぐだぐだ言わんと、家督返せオラ! 将軍命令だぞ」
斯波義廉「わ~ん、宗全さ~ん」
山名宗全「そもそも、将軍の側近が悪いからこうなったンじゃネ?」
畠山義就「そうだそうだ!」
こうして将軍側近であった伊勢貞親と季瓊真蘂(きけいしんずい)、赤松政則らの追放劇である文正の政変が起きると……
山名宗全「よし、貞親らを追っ払ったぞ。 おい義廉、お前やっぱり斯波家当主な」
斯波義廉「わ~い、ありがとう宗全さん♪」
斯波義敏「くっそう、…憶えていろよ!」
足利義政「えっ? あの…俺の命令は…無視?」
そうして、応仁の乱に突入していくと、東軍についた義敏は越前に向かい…
斯波義敏「ふふふ…、まず越前の支配をすすめようっと♪」
朝倉孝景「はっはっはっ、そうはいきませんぞ」
斯波義敏「おわっ、孝景か。 …って、お前西軍なの?」
朝倉孝景「家中の大半は西軍ですよ。…みんな貴方が嫌いですからね」
斯波義敏「トホホ、人気ないのねワシ…」
朝倉孝景「…でも大丈夫。 孝景、東軍に寝返っちゃう♪」
斯波義敏「おお、サンクス孝景! ワシの為に働いてくれるか?」
朝倉孝景「いや~、『越前は俺のモノ』って条件で、将軍や管領と約束したんで…」
斯波義敏「な…、なんやてぇぇぇ~~」
朝倉孝景「さ、お帰り願いましょうか? 元ご主人様♪」
斯波義敏「おのれ、憶えておれぇぇっ!」
さて、そんな中、織田家の歴史の解説の始まりです。
今回は、織田伊勢守敏広の時代からですね。
織田敏広【1454~1459頃】
↓
織田輔長【1459~1460頃】
↓
織田敏広【1460~1476】
↓
織田敏定【1476~1495】
守護代織田敏広の時代の始まりは、主君斯波義敏と斯波家家臣団の対立が深まっていた時代です。
一時、織田新右衛門輔長という人が守護代権限を行使した以外は、2期合わせて20年以上の長きに渡って尾張守護代の地位にあり、その大半が主君斯波義敏との反目の時間でした。
およそ長禄~康正年間は下記のような体制だったようです。
尾張守護 斯波義敏→松王丸→義廉
尾張守護代 織田敏広
尾張守護又代 織田豊後守・織田広成
故に、応仁の乱が起きた際も、朝倉孝景らと同様、西軍について義敏と戦っていました。
…しかし、風向きは次第に変わっていきます。
まず越前守護欲しさに東軍に寝返った朝倉孝景が越前を奪い、ついで応仁の乱後、幕府を東軍側の細川政元とその一族らが専横した為、西軍についた斯波義廉は窮地に立たされました。
…斯波義廉は、斯波家の領国で唯一、西軍派が主流を占めていた尾張に逃げる事になりますが、
斯波義廉「ヒイ…ヒイ……フゥ…フゥ…」
織田敏広「よくぞ御無事で… ここ尾張なら大丈夫です」
斯波義廉「おお、頼れるのはそなただけじゃ」
織田敏広「いや~、自分…斯波義敏が大っ嫌いなんで!」
一方、東軍として勝ち組についた斯波義敏も、朝倉孝景に奪われた越前を取り戻せなかった挙句、戦で負けて朝倉孝景に捕えられ、京都へと送り返されてしまいます。
替わって正式に家督を継いだ斯波義良は、遠江を巡って今川義忠を敗死させると、尾張の義廉にとどめを刺すべく、一人の男を派遣します。
かつての守護又代織田久長の息子敏定です。
【織田大和守家系図(推定)】
朝長(教長)
┣右長
┗久長━敏定
敏定が歴史の表舞台に現れるのは文明八年(1476)、27歳の時でした。
前年に敏広を頼って尾張に下った斯波義廉を打倒する為、尾張に派遣された敏定は、下津城にいる敏広と義廉を攻めます。
織田敏定「それそれそれぇ~~ぃ!」
斯波義廉「うわぁぁぁぁ」
織田敏広「こ、こら! 織田本家のワシに対して、無礼であろう!」
織田敏定「残念だな。 こちとら将軍から尾張守護代に内定の身なんだ」
織田敏広「なん…だ…と?」
織田敏定「つまり、今は我が大和守家が織田嫡流って訳だ。 ハッハッハッ」
織田敏広「うぅ…、おのれぇ」
織田敏定「当家は斯波義良様を戴く身。 野郎ども、偽物とそれを戴く分家の城を燃やしてしまえ!」
斯波義廉「あぁ、城が焼けるぅ~~」
織田敏広「いかん、殿! とりあえず熱田神宮へ逃げましょう!」
この2年後の文明十年(1478)には、敏定は幕府から尾張守護代を任じられ、改めて尾張に入国して清洲に入城し、この時より大和守家の本拠は清洲に定まったのです。
…当然、伊勢守敏広は黙ってません。
斯波義廉「敏広、どうするのじゃ?」
織田敏広「決まってます! 断じて敏定を討つべし!」
斯波義廉「でも、兵力が…」
織田敏広「大丈夫、舅で美濃守護代の斎藤妙椿(みょうちん)殿に援助を頼みます」
斯波義廉「おお、それなら!」
織田敏広「おのれ敏定…、目にもの見せてくれる」
同年12月4日、敏広は斎藤妙椿らと、清洲に攻め寄せました。
この戦では、敏定自身が右目を矢で射抜かれて失明し、一門の織田某が戦死したものの、結局翌年1月に妙椿との間で和議を結ぶまで、何とか清洲城を守りきっています。
この直後から、織田敏広の名が史料から忽然と消えます。
郷土史家の新井喜久夫氏は、文明十三年(1481)3月の戦いで戦死したのではないかとの説を取られてますが、私はむしろこの清洲の戦で戦死したのではないかとみています。
…なぜなら、『大乗院寺社雑事記』の記事で、この戦の和談に触れていますが、
尾張國合戰、二郡分織田大和安堵、持是院(妙椿)与和談之由
とあるように、この和議の席上にいなければならないはずの敏広の姿が見えないからです。
加えて和議の条件には、尾張二郡(海東郡・愛知郡)の大和守敏定側の領有が含まれており、伊勢守敏広がこれらを認めるとは思いにくいのもあります。
とまれ、こうして義廉に代わって尾張に入部した斯波義良を清洲に迎えた敏定は、この後約15年間、尾張守護代として君臨する事になります。
今回は、この辺で…
~続~