歴史探偵 諏訪欧一郎の事件簿 ~織田家の先祖たち~ 第六夜 | 李厳さんの独り言

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岩田「前回の日記は、かつてないほどの反響があったようじゃの」

ケン太「えぇっと、今回は…」

諏訪「うん、今回は織田大和守敏定の時代からだ」

神崎「はい」

諏訪「今回は、一気にラストまで突っ走るぞ。 振り落とされるな!」

ケン太「やだ、カッコいい…」





織田敏定【1476~1495】
 ↓
織田寬村【1495~?】
 ↓
織田達定【?~1510】
 ↓
織田達勝【1510~1546頃】
 ↓
織田勝秀【1546頃~1554】













どうも、李厳です。


今回は、大和守敏定の時代からですね。






尾張国というのは、戦国時代、遅くまで戦国化しなかった国の一つです。



その背景には、尾張守護たる斯波家当主と、それを戴く守護代の織田大和守家が、同じ清洲城に君臨していた点が挙げられます。



何しろ、国のナンバー1とナンバー2が、年がら年中尾張に在国しているのです。


現代の国会議員と同様、都にいるよりは現地にいる方が、地元の人の畏敬の念も得られやすいのでしょう。




そもそも下剋上自体、主君がいない政治的空白を狙って起こされるのが大半ですので、その発想自体を抑制する効果は、間違いなくあったと考えられます。




同じ場所に守護と守護代が住まう事で、結果的に幼君と老臣という年齢差の時期に、主(守護)が家臣(守護代)によって傀儡化されることはあっても、守護代も守護あっての立場なので、それらの身分制度の否定は起こりにくいもののようです。










さて、守護と守護代がなにしろ領国に住み始めた訳ですから、それまで現地の最高責任者であった織田常竹以来の『守護又代』という存在が、まず必要なくなりました。




後の時代、織田大和守家の家臣の坂井村盛や坂井大膳といった人々が、『小守護代』と呼ばれていた事が、『信長公記』などの史料で明らかになっています。



…が、彼らは守護又代とは異なります。


守護又代=現地の工場長
小守護代=現地に移転した会社の専務


というように捉えれば、判りやすいと思います。








話を本題に戻しましょう。

大和守敏定が守護代になって、織田伊勢守家と斯波義廉を駆逐した後は、大和守敏定の一人勝ちの時代が始まります。



近元日記』によると、敏広を失った織田伊勢守家は、文明十三年(1481)7月に敏広の子千代夜叉丸(寬広)が将軍家に礼物銭を献上しているので、この段階で幕府及び織田大和守家に帰服したものと見られます。










…問題なのは、この時の伊勢守家に対する敏定の処遇です。



よく、信長が生まれた頃の尾張が説明される際、ほぼ必ず…

尾張国には守護代が二人おり、上半国守護代が織田伊勢守下半国守護代が織田大和守であった

といった類の説明がなされたりしますね。








…ですが、これはかなり奇妙な話です。


信長研究の一等史料たる『信長公記』の【尾張国かみ下わかちの事】の冒頭を挙げてみましょう。


さる程に尾張国は八郡なり。上の郡四郡、織田伊勢守諸侍手に付け、進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。半国下の郡四郡、織田大和守が下知に随え、上下、川を隔て、清洲の城に武衛様を置き申し、大和守も城中に候て、守り立て申すなり。…



ここでは、確かに織田伊勢守家と織田大和守家が、尾張の上下四郡を分割統治していると書いてあります。




しかし、いかに伊勢守家が織田嫡流とはいえ、勝者である敏定が尾張を南北二つに割ってまで、織田伊勢守家に守護代の地位を還付したと考えられますか?



確かに、「上の郡四郡、織田伊勢守諸侍手に付け」とあり、『信長公記』の別の項【信長大良より御帰陣の事】でも、「尾張国半国の主織田伊勢守…」とはあります。





…が、『信長公記』を通して読んでも、織田伊勢守を『(上半国)守護代』と呼称している表記はありません。




片や大和守は、【織田喜六郎殿御生害の事】の項で


一、清洲の城守護代、織田彦五郎殿とてこれあり


と、ただの「守護代」として説明されており、『信長公記』では一貫して、尾張守護代が一人しかいなかった前提で書き進められています。






実際の織田伊勢守家は、上四郡のある程度の実効支配はしていたものの、守護でも守護代でもありませんでした。



この事実は、文明年間以降、中嶋郡の妙興寺などの文書が残りやすい寺に、伊勢守家を守護(代)と表現する同時代の史料が残っていない事で裏付けられます。



およそ織田家惣領+守護代職と引き換えに、伊勢守家を赦免する…というのが、現実的な判断ではないでしょうか。


つまり伊勢守家はこの後、織田宗家というだけの一勢力に成り下がったものと考えられるのです。








この「伊勢守家=上半国守護代」という誤った解釈は、すでに江戸時代初期には存在していました。


江戸時代が始まって30年ほど経った時期に編まれた『寛永諸家系図伝』では、織田敏信・信安の説明に「上四郡守護」(守護代ではない)と書かれてあります。



そしてこれを鵜呑みにした遠山信春が、元禄年間に記した『総見記』(織田軍記)の中で、


其比織田大和守敏信カ嫡子ヲ伊勢守信安ト號スサル仔細有テ公方ヘ直ニ仕ヘ奉リ尾張一國八郡ノ内上四郡領シ武衛ハ下四郡ヲ領シテ武衛ノ威次第ニ衰フ


と書いた為、今日まで「伊勢守家=上四郡の守護(代)」という説が認知されたのです。











さて、長享元年(1487)の九代将軍足利義尚と、延徳三年(1491)の十代将軍足利義材(義稙)による二度の六角討伐の際、織田家では伊勢守家・大和守家共に参陣しています。



その数字は各史料で一定を見ませんが、軍装の華美さは山名勢にも劣らないと、『蔭涼軒日録』には記されています。




この時が伊勢守・大和守両系統の、つかの間の蜜月でした。






しかし明応四年(一四九五)、美濃で斎藤妙椿の子妙純と石丸利光との間で争い(船田合戦)が起きると、事態は一変します。




大和守敏定が石丸利光方に加勢すると、伊勢守家の寬広が斎藤妙純方に加勢して、その進路を妨害した事で、両家の関係が一気に冷え込んだのです。


これは、寬広が斎藤妙純の養女を娶っていた為です。




この戦の最中、大和守敏定は病死し、敏定の子寬定も戦死した為、船田合戦が終わった後も尾張では両系統が争っていたと、興福寺の尋尊は書き記しています。





ちょっと判りにくいと思うので、ここで一旦、私が推定した織田伊勢守家・大和守家の系図を挙げておきましょう。



【織田伊勢守家系図(推定)】
教広(常松)

淳広
┣郷広
┃┣敏広━寬広━広高
┃┣広近━寬近
┃┗広忠━広遠
┗久広


【織田大和守家系図(推定)】
朝長(教長)
┣右長━輔長
久長
┣敏定━寬定━達定=達勝
┗○○━寬村


(=は養子、無論推定)








敏定亡き後、空位となった尾張守護代には、織田六郎寬村が就任しました。


この寬村は『船田前後記』によると、


而至九月近江前司大敗。兄弟二人卒于師。件弟六郎承嗣其家云(前記)

去年九月織田近江前司兄弟戦死。次苐六郎爲嗣(後記)



とあるように、大和守敏定の子近江守寬定(近江前司)の兄弟であるように読めます。



…が、『群書類従』の原本では、「」ではなく「」とあり、すぐ上の「近江前司兄弟」を含めた全ての「弟」と「苐」は、しっかり書き分けられています。




もっとも「苐」も(テイ)と読むので、弟の意味で解釈してもいいのかもしれません。




…が、実はこの「次苐」は、『船田前記』の「件弟」と共に『群書類従』収録の際、本来「従弟」(いとこ)と書かれてあったものの誤写ではなかろうか?と、私は考えます。





現に、『大乗院寺社雑事記』明応四年十月二十八日の条では、近江守寬定を、


尾帳国守護代(寬村)之白父故大和守子息


と表記し、寬村と寬定を従兄弟の関係にしているからです。







この寬村は、史料上では何も為す事なく、敏定の孫と推定される達定に守護代をバトンタッチします。

達定は『定光寺(年代)記』によると、永正十年(一五一三)四月十四日、


尾州織田五郎殿所害、尾州尽乱


また『東寺過去帳』では、


永正十年五月五日合戦也、武衛屋形、織田五郎と惣領の取合也、然而五郎生涯天命也


とあるので、主君斯波義達との政争の果てに自刃したようです。




またその頃、斯波義敏も死んでいる事が、天文十四年(1545)4月17日に「正観院殿前左武衛竺渓仙公大禅定門三十三回忌」が執り行われている事からわかっています。




斯波義敏も、74歳の激動の人生に終止符を打ちました。






この『定光寺(年代)記』と『東寺過去帳』の記述が、同一の事件を指しているのかは不明です。

しかし、「前左武衛」(斯波家元当主=義敏)の死が契機となって、斯波義達と織田達定が斯波家家督を巡って争った事だけは間違いありません。




結局、五郎達定が斯波義達に逆らって誅殺された事で、以後敏定の子孫は、斯波義達によって守護代職と織田家惣領の地位を奪われたものと思われます。







殺された達定の跡は、織田五郎達勝という人が継ぎます。



達勝の家も不明ですが、久長以来の「五郎」を仮名としているので、その子孫であると考えられています。



ただし、「言継卿記」にその名が見える達勝の弟監物尉広孝が、この頃まで大和守系では使われていない「広」の字を使っているので、断言はできません。


『旅とルーツ』(日本家系図学会編)においては、広孝は織田伊勢守家寬広の子広高と同一人物の可能性を示していますが、考えられない話ではないでしょう。





五郎達勝は、信長の父信秀の時代まで、およそ30年以上、守護代を務めました。


これは初代常松を抜いて織田家歴代最長です。






この頃には『信長公記』でいう所の「大和守内に三奉行これあり」、つまり大和守三奉行が存在していたようです




それは永正十三年(1516)に発給された妙興寺への織田弾正忠信○・織田筑前守良頼・織田九郎広延の三人の署名がある奉行人連署奉書から窺う事ができます。




ところが、『名古屋市史』で指摘されている事ですが、大和守三奉行の存在を示す文書は、この一通しか存在していません。


加えて、通常は達勝が出す書状の副状は、別の奏者が出していた…という事を考えると、あくまで三奉行が存在していたらしい…という表現に留まらざるを得ないのです。





むしろ達勝政権3年目のこの年にのみ、三奉行の連署奉書が存在しているのは、三奉行が若い達勝の後見として、臨時に仮設で作られた職だからか?と勘繰ってしまいたくなりますね。





余談ですが、この織田弾正忠信○は、一般に信定、或いは信貞と説明される信長の祖父です。

…が、残された文書の字を見る限り、定とも貞とも読めないので、あえて伏字で○にしました。






さて、その後は三奉行の名前のみが残り、大和守家内の有力な一門として、信長の時代に至ったものと考えられます。




この後、織田大和守家は次代の織田彦五郎の時代に、信長によって滅ぼされます。


ちなみにその前年、斯波家最後の当主義統が彦五郎によって暗殺され、足利将軍家に連なる名門斯波家は滅んでいます。






尾張守護と尾張守護代の滅亡が、わずか1年という点は、決して偶然ではありません。


これは、先にも説明したように、尾張守護代自身が尾張守護あっての立場であった事を否定してしまった事により、「尾張国内で下剋上が肯定された」事による現象と言えるでしょう。



私は、信長の尾張統一に向けた動きは、この尾張守護代による主君暗殺に端を発していると見ています。


極論を言わば、織田彦五郎が斯波義統を殺さなければ、信長が将来、尾張を統一する動きすらなかったものと断言できます。



さて、次回は信長の自家の先祖、『織田弾正忠家』について、見ていきたいと思います。



今回は、この辺で…



~続~