ケン太「今回の大河ドラマ『軍師官兵衛』って、面白いね」
諏訪「そうだな。要所々々で「おっ?」っと思わせる演出があって、なかなか見ごたえがあるね」
神崎「それに、一週間ごとにちゃんと放送してるから、観てる人を飽きさせないですよね?」
ケン太「そうだよね! そこが一番大きいよね」
諏訪「……それは、…皮肉かな?」
2人「べっつに~」
……
ケン太「今回は?」
諏訪「うん、今回はまず『小豆坂の合戦』についての説明だね」
神崎「お願いします」
諏訪「判りやすいように、まずWikiの引用をしようか。
『小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)は、岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた戦国時代の合戦。三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で天文11年(1542年)と17年(1548年)の2度にわたって繰り広げられた。
発端は松平氏家中の家督相続をめぐる対立だが、これに領地拡大を図る織田氏と今川氏が介入し、事実上、松平清康の死後勢力の衰えた松平氏に代わる西三河地方の覇権を巡って、織田信秀と今川義元との間で生じた抗争である。』
ケン太「小豆坂の戦いは、織田信長の父信秀と、今川義元の戦だったんだね」
諏訪「そう、徳川家康の祖父松平清康が若くして死んだ後、西三河をまとめる勢力が存在しなかった事から…」
神崎「尾張の織田信秀と、駿河・遠江の大名今川義元が戦った地が、三河国の小豆坂という所だったんですね」
ケン太「ふ~ん……で、何が問題なの?」
諏訪「Wikiの文中には、『2度にわたって繰り広げられた』とあるが、実は小豆坂の合戦は、戦った回数から合戦の年次に至るまで、定説といえるものが存在しない不思議な合戦だったりする」
ケン太「げっ! なんで?」
諏訪「まずは書かれている史料によって、日にちが違う点が挙げられる」
神崎「日にち…ですか?」
諏訪「うん、例えば太田牛一の『信長公記』では年次はなく、ただ『八月上旬』と書いてあり、信長公記の影響を受けた小瀬甫庵の『信長記』は、天文十一年(1542)八月十日の戦いとしていて…」
岩田「大久保彦左衛門の『三河物語』では、小豆坂の戦いを天文十七年(1548)三月十九日としているんじゃ」
諏訪「うおっ! ガンさんいつの間に」
岩田「家賃は6割! それ以上はまからんぞい」
神崎「うっ、判りました」
ケン太「また、面倒な人が…」
岩田「…ケン坊、何か言うたか」
ケン太「よしよし、犬千代可愛いな」
犬千代「ニャー」
…
諏訪「話を戻そう。明確に日にちを示している史料は2つ」
『信長記』→天文十一年(1542)八月十日
『三河物語』→天文十七年(1548)三月十九日
神崎「では、二回あったんじゃないですか?」
諏訪「ところが天文十一年頃の今川家は、東の北条家と争っていて、三河に目を向ける余裕はなかった」
ケン太「へ~」
諏訪「今川義元にとっては、北条家と天文十四年(1545)に和睦するまで、北条家に奪われた駿河河東地域の奪還こそが最優先課題だったんだ」
岩田「実際、今川家が岡崎近辺の寺社に出した一番古い判物が、天文十八年(1549)九月十日付けの無量寿寺に対する制札で…」
諏訪「それ以前に今川家名義で発給された文書は、岡崎近辺に存在していない」
神崎「つまり、その時期まで西三河に今川家の影響力はなかった…という事ですか?」
ケン太「じゃあ、小豆坂の戦いは一回だったんじゃん?」
岩田「ところが、それだと史料上の矛盾が生じてしまう」
神崎「矛盾?」
諏訪「うん、『信長公記』首巻の【あづき坂合戦の事】を見てくれ」
「八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出だし、(中略)あづき坂にて備後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、既に一戦を取り結び相戦ふ。其の時よき働きせし衆、織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿・織田造酒丞、これは鎗きず被られ、内藤勝介、これはよき武者討ち取り高名。那古野弥五郎、清洲衆にて候、討死候なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助。三度四度かゝり合ひ〱、折しきて、各手柄と云ふ事限りなし。前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。是れより駿河衆人数打ち入れ候なり。」
ケン太「…これが、…何か?」
岩田「文中にある『織田与二郎殿』というのは、信秀の弟織田信康の事なんじゃが…」
諏訪「織田信康は、天文十七年(1548)以前、美濃の斎藤道三との戦で戦死しているんだ」
ケン太「えっ? ??」
諏訪「判りやすく、タイムテーブルに示すと…
天文十一年 小豆坂の戦い
(織田信康が健在)
↓
天文十五年 信長元服
(青山与三右衛門が元服に立ち会う)
↓
天文??年 信秀の美濃攻め
(織田信康・青山与三右衛門戦死)
↓
天文十七年 小豆坂の戦い
(これ以前、今川家の三河侵攻なし)
神崎「…先生、信秀の美濃攻めが(天文??年)になっているのは、何故ですか?」
諏訪「それは、次回以降に説明する」
岩田「どうじゃ? 全ての史料を鵜呑みにすると、小豆坂の戦いが2回ないと説明つかんじゃろ?」
ケン太「う、う~ん……そうだね」
諏訪「じゃあ、次回はそこら辺りを解き明かしていこう」
神崎「お願いします」
~続~