ケン太「先生、さっそく始めようよ」
諏訪「おう、そうだな。 …どっからだっけ?」
神崎「朝倉家景=教景の可能性についてですね」
教景
┃
家景
┃
孝景
┣━┳━━┓
氏景※教景※教景(宗滴)
諏訪「…家景が教景を名乗った可能性は、限りなく低い」
ケン太「何で?」
諏訪「まず、15世紀前半に朝倉家に『教』の一字を与えられた主筋は2人いた…と、前回言ったね」
神崎「はい。 斯波義教と足利義教ですね」
諏訪「そうだ。 そして前回、初代教景(心月宗覚)は斯波義教から…英林孝景は足利義教からの一字拝領だと推理した…」
岩田「そうじゃったの」
諏訪「……となると、間の家景は、誰から『教』の字を貰えばいいんだ?」
ケン太「えっ……」
朝倉教景 ← 斯波義教
朝倉家景 ← ??
朝倉孝景 ← 足利義教
諏訪「中世の武家においては、名付けにも多くのルールはあるが、『主の偏諱を勝手に名乗ってはいけない』なんてのは、明文化するまでもなく絶対に許されない行為だ」
神崎「そうなんですか?」
岩田「例外はないのかの?」
諏訪「うーん…一応、例外として森蘭丸の日記で書いた森長継の舅池田長幸は、父長吉から信長の偏諱『長』を受け継いではいるけど…」
ケン太「…オッケーじゃん」
諏訪「その場合は、
1、主家から既に離れている
2、主家が滅んでいる
3、主家から偏諱が得られない状況
…の場合に限られる」
神崎「考えてみれば、主に断らずに勝手に一字貰ったら、失礼ですものね」
諏訪「それと、応永九年(1402)生の家景なら、斯波義教の子で応永四年(1397)生の義淳から一字貰う方が、相応しいだろう?」
ケン太「年齢的には、間違いなくそっちだね」
諏訪「判りやすく、年表にしてみよう」
1400、斯波義重、「義教」と改名
1402、朝倉家景、生まれる
1407、斯波義淳、元服
1409、斯波義淳、管領就任
1418、斯波義教、死去
1428、足利義持、死去&弟義円が還俗し、「義宣」を名乗る
1429、足利義宣、「義教」と改名
1441、足利義教、嘉吉の変で殺される
ケン太「赤字の時代が、主筋から『教』を拝領できる時期だね」
神崎「この年表だと…
1400~1406
1429~1441
の間ですね」
諏訪「先にも言ったように、家景は斯波義教の子義淳と同年代だから…」
岩田「一字を拝領するとしたら『淳』の方が相応しいのぅ」
諏訪「うん、それ以前の1400~1406の時代に『教』を拝領するとは思えないね」
神崎「そもそも先生の説だと、その時期に先代教景が斯波義教から拝領した…としてますからね」
ケン太「…となると、1429~1441の方?」
諏訪「こっちの場合は、可能性は一応ある」
ケン太「あるの!?」
諏訪「実際、尾張守護代の織田朝長は、嫌がる主君斯波義淳を管領に就任させた褒美として、将軍から『教』の一字を貰って、織田教長を名乗っているからね」
神崎「嫌がる主君を管領に? …どういう意味ですか?」
諏訪「足利義教は将軍権力復権の為、弱気に過ぎる斯波義淳を管領に据える事にしたんだ」
ケン太「どうして?」
諏訪「幕府の全ての政治決済を、諸大名の連判のある管領奉書から、将軍自らの御判御教書や奉行人連署奉書で、できるようにしたかったからだ」
神崎「ム~、難しいですね」
諏訪「『満済准后日記』によると、そもそも斯波義淳への管領要請の為に来た足利義教の使者満済に対し、斯波家の家老の甲斐・朝倉・織田らは…
武衛管領職事非器
(うちの主人アホやってん、管領の仕事は無理じゃわ)
とか、酷い断り方をしている」
ケン太「ひでぇww」
諏訪「しかしその後、斯波義淳が管領になった事で、義淳を口説いたと思われる織田朝長が、義淳管領就任の翌月から【教長】と発給文書などで名乗っている」
岩田「ほほぅ…」
諏訪「この時、管領就任を断った斯波家の家老の「朝倉」が、仮に家景だったとして…その後織田朝長と一緒に義淳を管領に仕立て上げたのなら、家景が教景になれた可能性はあった」
ケン太「…って事は、なれなかったの?」
諏訪「その当時の、家景の動向を示す史料がないんだよ」
神崎「むしろ、『朝倉始末記』では家景の別名として『爲景』と書いているくらいですからね」
諏訪「そう…だから家景は名乗る機会はなかったし、もしあったら義教が嘉吉元年に、心月教景か英林孝景に『教』の字を与えようとはしないでしょ?」
神崎「確かに…」
…
諏訪「…と、見てきたように、実際に家景が教景を名乗ったとするには、無理があるんだな」
ケン太「じゃ、じゃあ…あの5人の教景の系図は一体…?」
諏訪「それは、次回に説明するよ」
神崎「もしかして…逃げた?」
諏訪「違わい! 一気に説明するのがメンド臭いだけだ!」
ケン太「人……それを「逃げた」と言う…」
~続~