【遠藤のアートコラム】ゴッホとゴーギャンvol.2 ~ファン・ゴッホと絵~ | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

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パリに巨大な鉄の柱がたち、エッフェル塔の脚がつくられ始めた年、ファン・ゴッホは、パリでベルナールやロートレックといった、若手の作家たちと展覧会を開いていました。

 

今月は、東京都美術館(東京・上野)で開催されている「ゴッホとゴーギャン展」の作品を紹介しながら、フィンセント・ファン・ゴッホと、ポール・ゴーギャンについてご紹介します。

 

■今週の一枚:古い教会の塔、ニューネン(「農民の墓地」)(※1)■

―この廃墟が示す、生きているときに掘り返していたまさにその土地に、
〈何世紀もの間〉、農民が埋葬されてきた様を伝えたかった―

 

上記は、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)が、弟のテオに宛てて送った手紙の一節です。

《古い教会の塔、ニューネン(「農民の墓地」)》の制作意図が記されています。

 

この絵は、ファン・ゴッホがパリに向かう前、画業初期の作品です。

描かれたのは、オランダのニューネン。

この古い教会の塔は、ファン・ゴッホ一家が暮らした牧師館の近くにありました。

 

同じ場所を描いた1年ほど前の作品では、まだ塔に屋根があるため、ゴッホはこの塔が次第に壊れていく様子を見ていたようです。

 

 

 

手紙の続きには、こうあります。

「この廃墟は今、堅固な基盤をもっていても、信仰と宗教がいかに朽ち果ててしまうか、しかし、墓地に生える草花が変わらず芽吹いては枯れていくように、農民の生と死がいかにこれからも変わらぬものであるか、ということを示している。「宗教は廃れ、神は残る」とは、先日埋葬されたヴィクトル・ユゴーの言葉である」

 

 

 

 

ファン・ゴッホは生涯にわたり、農民や労働者の素朴な生活を見つめ続けた画家でした。

 

彼が生まれたのは、オランダ南部の村ズンデルト。

父親はプロテスタントの牧師でした。

家は中産階級で、伯父が美術商だったため、彼は16歳で画廊に勤め始めます。

 

初めは勤勉な青年でしたが、しだいに美術商への熱意が消え、信心深くなっていき、仕事も解雇されてしまいました。

 

職を転々とした後、父と同じ牧師になろうと神学の勉強を始めますが、それが不向きだと思うや、労働者階級のための伝道師になろうとします。

父は伝道師の養成学校への入学許可が下りるように支援しますが、正式な入学は許可されませんでした。

それでもファン・ゴッホは、ベルギーの炭鉱地ボリナージュへ向かうと、6ヶ月間試験的に伝道師として働く許可を得ます。

自ら進んで炭鉱夫に交じり、貧困のうちに暮らしながら彼らを助けようと勤めますが、ファン・ゴッホの試用期間は延長されませんでした。

 

自身に絶望した彼に、画家になるようすすめたのは弟のテオでした。

手慰みに絵を描いていたファン・ゴッホが、画家になることを決意したのは、1880年の8月、27歳のとき。比較的遅いスタートでした。

 

ベルギーを離れ、両親の移転先であったオランダのエッテンに移ると、村の人々を精力的に素描します。

 

その後、ハーグやドレンテで絵の修行をした後、両親の引越し先のニューネンへと移ります。

 

※1 古い教会の塔、ニューネン(「農民の墓地」)

 

この間に、彼は静物画や風景画にも取り組みますが、何よりも、織工や羊飼い、畑で働く人など、田舎の人々とその労働を描きました。

 

ファン・ゴッホにとって、“農民画家”と呼ばれ、《晩鐘》や《種まく人》などの作品で知られる画家ミレーは、後々まで重要な先人となりました。

 

彼は1885年11月からベルギーのアントウェルペンに移りますが、その3ヶ月後にはパリを目指します。

 

1886年2月28日、エッフェル塔が着工される前の年に、ファン・ゴッホはパリに到着しました。

 

パリには画商として活躍していた弟のテオがいました。

彼は、モネやピサロ、ルノワールやシスレーといった、印象派の作品を扱い始めていたため、この弟を頼ってやってきた兄もまた、彼らの作品を目にしたことでしょう。

 

彼がパリに着いて間もない5月15日から6月15日までには、第8回にして、最後の印象派展も開かれました。

ファン・ゴッホはこの展覧会でゴーギャンの絵を初めて目にしたと考えられています。

 

フェルナン・コルモンのアトリエに通い始めたファン・ゴッホは、エミール・ベルナールやトゥールーズ=ロートレックなどの若手芸術家と出会います。

 

これら、パリでの出来事は、ファン・ゴッホにとって、全てが刺激的だったことでしょう。

 

印象派を実際に目にした初めの感想は「初めて見ると、激しく、激しくがっかりし、不完全で、見苦しく、ひどい描き方で、デッサンも下手、色彩もだめで、何もかもひどい」と感じたと後に回想しています。

 

しかし、やがてファン・ゴッホは、印象派を含む同時代の芸術を受け入れていき、それまでの暗い色調から一転、明るい色彩に取り組むようになります。

 

※2 自画像

 

こちらは、パリへ来て1年後、1887年4〜6月頃の作品です。

 

色彩は豊かで明るくなり、動きのある筆触で描かれています。

 

そして、この年の11月〜12月。

ファン・ゴッホは、アンクタンやベルナール、ロートレックらと一緒にレストランで展覧会を開きます。

 

ファン・ゴッホと弟のテオがポール・ゴーギャンと初めて出会ったのは、おそらくこの時だと考えられています。

 

直前までパナマやマルティニク島に渡っていたゴーギャンは、カリブ海の熱帯の光と原始的な風景を携えていました。

 

すぐに彼の才能に惹かれたファン・ゴッホは、自身の描いた2点のひまわりの絵画と彼の絵とを交換するのです。

 

続きはまた来週、ファン・ゴッホとゴーギャンについてお届けします。

 

 

参考:「ゴッホとゴーギャン展」図録 発行:東京新聞、中日新聞社、TBSテレビ

 


 

※1 フィンセント・ファン・ゴッホ《古い教会の塔、ニューネン(「農民の墓地」)》1885年5-6月ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)

©Van Gogh Museum, Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)

 

※2 フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》1887年4-6月

クレラー=ミュラー美術館

©Kröller-Müller Museum, Otterlo

 

 

<展覧会情報>

「ゴッホとゴーギャン展」

2016年10月8日(土)~12月18日(日)

会場:東京都美術館 企画展示室(東京・上野)

 

開室時間:9:30~17:30

※入室は閉室の30分前まで

 

休室日:月曜日

 

展覧会サイト:http://www.g-g2016.com

問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)

 



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