ルネサンス期にドイツで活躍したルカス・クラーナハは、「宗教改革」のキービジュアルの作者でもありました。
今月は、国立西洋美術館 (東京・上野)で開催されている「クラーナハ展-500年後の誘惑」の作品を紹介しながら、クラーナハについてご紹介します。
ブリストル市美術館 © Bristol Museums,Galleries&Archives
―生きているうちに何の記憶も残さない者は、
死後にもいっさいの記憶をもたないのであり、
その人物は〔追悼の〕鐘の音とともに忘れ去られてしまう―
上記は、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世(1459-1592)の言葉です。
ハプスブルク家の隆盛を築いたこの王は、ドイツルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラー(1471-1528)の肖像画によって、よく知られています。
※2 左)アルブレヒト・デューラー(工房ないし追随者)《神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世》
上の写真の左手前に展示されている作品も、デューラーの工房ないし追随者によって描かれたマクシミリアン1世の肖像です。
当時の王や歴史上の人物は、画家に恵まれるかどうかで、そのイメージや業績の伝わり方が違ってくるといっても過言ではありません。
王たちもその重要性を認識していたようです。
当時のドイツには、デューラーと並び称された同世代の画家がもう一人いました。
ルカス・クラーナハ(父)(1472-1547)です。
知名度や評価でデューラーには一歩及びませんが、彼もまた、当時の肖像画家として、とても重要な役割を果たしました。
クラーナハが仕えたのは、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公です。
※3 右)ルカス・クラーナハ(父)《ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公》
会場には、クラーナハによるザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公の肖像も出展されています。
ザクセン選帝侯は、神聖ローマ帝国皇帝を選出する7人の選帝侯の1人でした。
神聖ローマ帝国とは、現在のドイツ、オーストリア、スイス、イタリア、ポーランド、チェコ等にまたがる巨大な帝国でした。
しかし、実際のところは、ローマ教皇から帝冠を授けられた皇帝が存在していながら、大小無数の王国、伯領が分立するという、ある種の分裂状態。
有力諸侯の力を借りたい皇帝と、みずからの支配権を強化したい諸侯との利害関係のうえで、この分裂状態は19世紀まで続きます。
こうしたなかで、フリードリヒ賢明公は、帝国の最高顧問としての地位も世襲。
彼は、ベルリンから南西へおよそ60kmの位置にある都市ヴィッテンベルクを、帝国内の文化的中心地にまで押し上げました。
1502年には、ヴィッテンベルク大学を創設しています。
ここで活躍したのが、マルティン・ルター(1483-1546)です。
1504年からヴィッテンベルクで宮廷芸術家になったクラーナハは、ルターと終生親しい関係にあったそうです。
1517年、ルターはヴィッテンベルク市の教会に、95カ条の論題を打ちつけます。
宗教改革の始まりとされる事件です。
ローマ・カトリック教会が販売する「贖宥状(免罪符)」に対する疑念を呈して発表したものでしたが、この事件はルターの思惑を超え、各地へ瞬く間に波及。
ヨーロッパの国々を動かす大きなうねりへと発展していきました。
神聖ローマ帝国皇帝に、帝冠を授けるのがローマ教皇であるように、ローマ・カトリック教会は、政治権力と密接な関係にありました。
そのため、各地の王や領主は教会に左右され、自国の富が教会へ流れることに嫌気がさしていたのです。
こうした政治や経済的な理由も加わり、周辺諸侯はルターを支持したのです。
1521年にルターは破門されてしまい、その後、法律の保護からも外されてしまいますが、ザクセン選帝侯は彼を保護。
ルターはその間に新約聖書のドイツ語訳を完成させました。
クラーナハはこのとき、印刷、出版、販売でルターを助けています。
クラーナハが最初に行った宗教改革の広報活動は1519年だとされます。
新教のための初のビラをてがけたのです。
翌年には、ルターの肖像を表した初の版画を制作。
1519年の終わりに、クラーナハの家にはメルヒオール・ロッターによって印刷機が備えつけられました。
ライプツィヒの出版業で成功した父を持つロッター。
彼の顧客の中にはマルティン・ルターの名がありました。
ルターは「95カ条の論題」を、ロッターのところで印刷してもらっていたのです。
センセーショナルな出版物を世に送り出す宗教改革者ルターをきっかけに、ロッター印刷所は、ヴィッテンベルクに支店を設立しようとしたのかもしれません。
家に印刷機を設置したクラーナハは、ルターの著書に対して、表紙や装飾を手がけるだけでなく、同じ屋根の下で印刷までするようになりました。
1525年、ルターは修道女だったカタリナ・フォン・ボラと結婚します。
この時、結婚式の立会人を務めたのもクラーナハでした。
しかし、当時は聖職者の婚姻は禁止されていました。
彼は聖職者の婚姻を公に認めさせようと、クラーナハの工房で自分と妻の肖像を描かせています。
こちらは、そうしたクラーナハによる肖像画のうち1枚です。
今となっては、この二対の肖像画のうち、妻のほうは喪失してしまったそうですが、夫婦を表した肖像画のうちでも最初期の作品です。
蜜月関係を築くルターとクラーナハ。
ルターはクラーナハの末娘アンナの洗礼の代父となっていましたが、クラーナハもまた、1526年にルター家に生まれた長男の代父を引き受けています。
こうして、ルターの宗教改革のイメージ戦略や、出版事業をてがけ、宗教改革の片棒を担いでいるかのようなクラーナハ。
しかし、その一方で彼は、あきらかにルターとは敵対関係にあるカトリック教会の司教や領主からの注文にも応えているそうです。
敵対するカトリック教会系の依頼を、もしザクセン選帝侯が反対していたら、宮廷画家であるクラーナハも受けることができなかったでしょう。
そうではなかったのは、宗教的な問題に対して彼らは、政治的、経済的な判断を下していたためだったのかもしれません。
また、ルターの宗教改革は、クラーナハに困った状況ももたらしました。
激しい論争の末、クラーナハの生業のひとつであった、古典的な宗教画が描かれなくなってしまったのです。
クラーナハは、こうした変わりゆく市場に合わせ、ルター等から始まった新教の教えを図像化することにも取り組みながら、カトリック教会からの大型受注にも応えていたのです。
クラーナハはルターの主義主張に共鳴し、友人として親しい間柄ではありましたが、工房経営者、事業家としては違った顔を持っていたのかもしれません。
絵画に加え、版画の技術が発展しはじめ、それらがメディアとして機能した時代、クラーナハはルターの肖像画を人々に届けることで、宗教改革にアイコンを与え視覚化しました。
今でも、授業で習った「宗教改革」を思い出す時、まっさきに教科書に掲載されたクラーナハによるルターの肖像画を思い浮かべる人も少なくないのではないでしょうか。
※4 右)ルカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルターとカタリナ・フォン・ボラ》
続きはまた来週、ルカス・クラーナハについてお届けします。
参考:「クラーナハ展-500年後の誘惑」カタログ 発行:TBSテレビ
※1 ルカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルター》 1525年
ブリストル市立美術館 © Bristol Museums,Galleries&Archives
※2 アルブレヒト・デューラー(工房ないし追随者)《神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世》
1525/30年頃(?)
ウィーン美術史美術館
※3 ルカス・クラーナハ(父)《ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公》1515年頃
コーブルク城美術コレクション
※4 ルカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルターとカタリナ・フォン・ボラ》1529年
ウフィツィ美術館
<展覧会情報>
「クラーナハ展-500年後の誘惑」
2016年10月15日(土) ~ 2017年1月15日(日)
会場:国立西洋美術館(東京・上野)
開館時間:午前9時30分 〜 午後5時30分(金曜日は午後8時)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(ただし、1月2日(月)、1月9日(月)は開館)、
12月28日(水) 〜 1月1日(日)
展覧会サイト:http://www.tbs.co.jp/vienna2016/
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