【遠藤のアートコラム】マリー・アントワネットvol.2 ~19歳の王と18歳の王妃~ | 文化家ブログ 「轍(わだち)」

文化家ブログ 「轍(わだち)」

美術や紀行、劇場や音楽などについて、面白そうな色々な情報を発信していくブログです。

ルイ16世の王としての最初の言葉は、「神よ守り給え、国を治めるには我々は若すぎるのだから」というものでした。

 

今月は、 森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)で開催されている「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」の作品を紹介しながら、マリー・アントワネットについてご紹介します。

 

■今週の一枚:
《大盛装姿のオーストリア皇女、フランス王妃マリー・アントワネット》(※1)■

マルシャル・ドニ クロード=ルイ・デレの原画に基づく
《大盛装姿のオーストリア皇女、フランス王妃マリー・アントワネット》1785年以降
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles


―私と国王陛下は趣味が同じではありません。
だって陛下は狩猟や機械いじりばかりなさっているのですから―

 

上記は、マリー・アントワネットの私信の一節です。

書かれたのは1775年4月。彼女がフランスへ嫁いでから5年が経っていました。

 

その前年、ルイ15世の死去により、ルイ16世は国王に即位。マリー・アントワネットは王妃となっています。

 

※2 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブランと工房《王妃マリー・アントワネット》1778年

ブルトゥイユ城 ©吉田タイスケ/NTV

 

結婚式当日、ルイ16世に初めて会った時、マリー・アントワネットは、おどおどしていて、ぎこちない様子の彼に、あまりよい感じを抱かなかったようです。

 

一方、プロヴァンス伯や、アルトワ伯といった、王の弟たちのほうがずっと快活で、彼女とも親しく、王妃の取り巻きの常連となっていきました。

 

※3 ジョゼフ・シフレ・デュプレシ《ルイ16 世》1774年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Gérard Blot

 

こちらは即位したばかりのルイ16世を描いた肖像画です。

 

ルイ16世は、“いとしきルイ”と呼ばれたプレイボーイな祖父王ルイ15世や、弟たちのような美丈夫ではありませんでしたが、教養豊かで数カ国語を話し、歴史と地理に熱中する青年でした。

内気で温和で、錠前づくりが趣味という生真面目な夫に対し、妻はパリの芝居や舞踏会に心惹かれ、音楽や喜劇の台詞の練習にばかり没頭していたとか。

 

室内装飾やファッションも、彼女の心を捉えたものでした。

 

イタリアから嫁いできた、王の弟たちの妻、義理の姉妹にあたるアルトワ伯とプロヴァンス伯の両夫人は、互いに優雅さを競い合い、張り合っていたそうです。

 

二人の間で王妃も洗練された最新ファッションに熱中していきます。

 

1774年以降、マリー・アントワネットは、パリのモード商ローズ・ベルタンが生み出す最新の流行を追いかけました。

宮廷の女性たちはこぞって王妃を真似し、マリー・アントワネットはパリのファッションリーダーに。

 

王妃が流行させた奇抜な髪型はどんどん高さを増し、「ガーゼやら花やら羽根やらを積み上げて、髪が馬車に乗ることができないほどの高さになり、扉のところで頭を傾けたり、被り物を外して置いたりすることがよく見られるようになった」といわれています。

 

※1 マルシャル・ドニ クロード=ルイ・デレの原画に基づく《大盛装姿のオーストリア皇女、フランス王妃マリー・アントワネット》1785年以降

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles

 

こちらは、マルシャル・ドニ(1745-?)が刊行した王妃の版画です。

凝った意匠の豪華なドレスを着、髪は真珠や花、羽飾りで飾られ、ダイヤモンドのピンを差しています。

 

この版画は、『近代的で優雅な衣服のコレクション』の第1巻に収められました。

モード雑誌の先駆けともいえる、こうした版画は広く流布。

 

貴婦人たちの憧れとなる一方、王妃の浪費ぶりと、装いへの過度の関心は、人々の非難の的になっていきます。

 

批判の声は母国ウィーンにも届き、母マリア・テレジアからは再三にわたり叱責の手紙が届けられました。

 

趣味も性格も異なる国王夫妻。しかし、夫婦仲が悪かったわけではなかったようです。

 

当時、これまでの国王は公認の愛人を持つのが普通でした。

先の王ルイ15世は、有名なポンパドゥール夫人に政治を任せるほどで、彼女が亡くなってからは、娼婦出身のジャンヌ・べキュ(1743-1793)をデュ・バリー伯爵と結婚させ、宮廷に上げて寵愛していました。

 

マリー・アントワネットはスキャンダラスな伯爵夫人と対立。彼女を頑迷に無視し続けたことで、ルイ15世を怒らせ、一時は外交問題になりかけました。

 

一方、ルイ16世は決して愛妾を持つことなく、マリー・アントワネットただ一人を愛したのです。

 

マリー・アントワネットにとって、それは幸福なことであり、不幸なことでもありました・・・。

 

実は、王の失政や王室に都合の悪い事は、愛妾のせいにされることが多く、公的な愛人たちは国民の怒りの矛先を王族からそらす、ある種の役割を果たしていたそうです。

 

しかし、ルイ16世は愛人を持たなかったため、人々の注目は全てマリー・アントワネットただ一人へと向かってしまったのです。

 

決して暗愚ではなかったルイ16世。人々からは慕われ、人気があったそうです。しかし、前王から積み重ねられた問題と財政難に、国民の不満は爆発寸前に膨らんでいました。

彼らの不満の矛先は、王妃の派手な振る舞いへと向かっていったのです。

 

※4 ビュルマ社 シャルル・オーギュスト・べメールとポール・バッサンジュの原作に基づく《王妃の首飾りの複製》1960-1963年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Jean-Marc Manaï

 

さらに追い討ちをかけたのが、「首飾り事件」です。

約550個の特大のダイヤモンドと100個ほどの真珠による首飾り。

上の写真はその複製です。

 

デュ・バリー伯爵夫人への贈り物としてルイ15世へ売られるはずでした。

ところが、ルイ15世がこの世を去ってしまったため、宝石職人たちはマリー・アントワネットに買い取ってもらおうとします。

しかし、王妃は160万リーブルという法外な値段を理由に買い取りを拒否。

 

この状況を見て詐欺を思いついたのが、ラ・モット・ヴァロワ伯爵夫人です。

彼女と共犯者たちは、王妃から嫌われていたロアン枢機卿に、王妃の代理に首飾りを購入することを持ちかけます。

王妃に取り入るチャンスを狙っていたロアン枢機卿に、薄暗がりの中、マリー・アントワネットそっくりの女に会わせることで、王妃からの依頼だと信じ込ませることに成功。

その後首飾りは犯人たちの手に渡り、バラバラにされ、売られてしまいました。

 

マリー・アントワネットは完全に詐欺の被害者でした。

この事件はすぐに発覚し、犯人たちのほとんどは捕まるのですが、巷では王妃の陰謀説が唱えられ、マリー・アントワネットの評判は決定的に貶められてしまったのです

 

こうした状況が、彼女を非業の死へと導いていきます。

 

続きはまた来週、マリー・アントワネットについてお届けします。

 

参考:「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」カタログ 発行:日本テレビ放送網 ©2016

 


 

※1 マルシャル・ドニ クロード=ルイ・デレの原画に基づく
《大盛装姿のオーストリア皇女、フランス王妃マリー・アントワネット》1785年以降

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles

 

※2 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブランと工房《王妃マリー・アントワネット》1778年

ブルトゥイユ城 ©吉田タイスケ/NTV

 

※3 ジョゼフ・シフレ・デュプレシ《ルイ16 世》1774年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Gérard Blot

 

※4 ビュルマ社 シャルル・オーギュスト・べメールとポール・バッサンジュの原作に基づく《王妃の首飾りの複製》1960-1963年

ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Jean-Marc Manaï

 

 

<展覧会情報>

「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」

2016年10月25日(火)-2017年2月26日(日)

会場:森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)

 

開館時間:午前 10時-午後8時(但し、火曜日は午後5時まで)

     ※入館は閉館の30分前まで

休館日:会期中無休

展覧会サイト:http://www.ntv.co.jp/marie/

 



この記事について