マリー・アントワネットのお気に入りの肖像画家の一人が、美術史に名を残すヴィジェ・ル・ブランでした。
今月は、 森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)で開催されている「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」の作品を紹介しながら、マリー・アントワネットについてご紹介します。
エリザベト=ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブランと工房
《フランス王妃マリー・アントワネット》1785年
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Christophe Fouin
―私が初めて王妃の肖像画を制作したのは1779年のことで、
その頃の王妃は輝くように美しかった―
上記は、マリー・アントワネット(1755-1793)に仕えた女性画家ヴィジェ・ル・ブラン(1755-1842)の回想録の一節です。
18世紀、300年に及ぶ宿敵だった、フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家の同盟が成立。その象徴としてルイ16世のもとに嫁いだのがマリー・アントワネットです。
注目を集める王妃の姿は、多くの肖像画に描かれました。
当時、王宮の装飾や公的な肖像画といったものは、「王室建造物局」が担っていて、今の文化庁のような役割も果たしていました。
王室建造物局が発注する公的な肖像画の他にも、王妃が画家に個人的に依頼をし、近親者に友情の証としてプレゼントした肖像画もありました。
こちらのほうは、肖像画の伝統や習慣から解放され、より私的なマリー・アントワネットの姿を伝えています。
※2 ルイ・オーギュスト・ブラン、 通称ブラン・ド・ヴェルソワ《狩猟をするマリー・アントワネット》1783年頃
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Gérard Blot
ルイ・オーギュスト・ブラン(通称ブラン・ド・ヴェルソワ)(1758-1815)によって描かれた上の作品も、そうした一枚です。
王妃が好んでよく行っていた狩猟の情景が描かれています。
颯爽と馬を操る王妃の後ろには、ひとりの騎手が見えます。
この人物は夫のルイ16世とみなされるそうです。
オーストリアからマリー・アントワネットを心配する母、マリア・テレジアの元へも、たくさんの肖像画が送られました。
画家たちが、こうした王妃付きの肖像画家の座をものにしようとする中、ひとりの女流画家にチャンスが舞い込みます。
貴族の肖像画を手掛け評判を得ていたヴィジェ・ル・ブランです。当時は王の蒐集室の模写画家を務めていました。
彼女がさらに画家として名を挙げ、名誉を得られるかどうか。
それは、マリー・アントワネットが、母へ贈るのに値する作品だと判断するか否かにかかっていました。
結果は大成功。無事にウィーンの宮廷に送られたヴィジェ・ル・ブランの肖像画に対し、母マリア・テレジアは「あなたの立派な肖像画は私の無上の喜びです」と、満足げに書いています。
王妃のアパルトマン用と、ロシア皇帝へ贈るため、2点のレプリカの制作がヴィジェ・ル・ブランに依頼され、この肖像画の成功によって、彼女はマリー・アントワネット付きの画家として迎え入れられたのです。
※1 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブランと工房《フランス王妃マリー・アントワネット》1785年
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Christophe Fouin
こちらの作品には、その時に描かれた原画が部分的に採用されています。
重厚感のある構図は、豪華な肖像画の伝統に則っています。
しかし、柔らかな色彩や、百合の花が散りばめられたトレーンと呼ばれる分厚い引き裾を、軽やかな薄地のものとして描くなど、この画家らしい新しいイメージも取り入れられています。
ヴィジェ・ル・ブランは、モデルによく似せながらも、美しさや気高さを巧みに引き出し、理想的な肖像画に仕立て上げることに長けていました。
王妃のお気に入りの肖像画家となった彼女は、マリー・アントワネットと同じ年ということもあり、友情を育んでいきます。
美人で腕の良い彼女は、早くから多くの貴族の肖像画を手がけていましたが、女性ということもあり、なかなか王立アカデミーには受け入れられずにいました。
しかし、国王夫妻の庇護を受けたことで、王立絵画彫刻アカデミーの会合で、1日にして準会員、そして正会員に承認されたそうです。
王妃の愛顧に応えようとしたヴィジェ・ル・ブラン。
ところが、彼女が描いた1枚の肖像画がスキャンダルを巻き起こす事件がありました。
※3 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブラン《ゴール・ドレスを着たマリー・アントワネット》1783年頃
ワシントン・ナショナル・ギャラリー、ティムケン・コレクション Courtesy National Gallery of Art, Washington
その問題作がこちら、《ゴール・ドレスを着たマリー・アントワネット》です。
1783年、ヴィジェ・ル・ブランは、この作品をルーヴル宮殿で開かれるサロンに出品しました。
王妃はシンプルなドレスを着て、大きな麦わら帽子を被っています。
この、「ゴール・ドレス」は、はじめの頃はドレスの下に隠して着たり、夜の寝間着として用いられたりしたもので、まもなく衣服そのものとして普段にも着用されるようになりました。
王妃は、かなり早い時期にこのドレスを取り入れていたようです。
当時はまだ私的な空間や、夏の散策時にしか着用されなかったこの「ゴール・ドレス」姿は、当時の人々からすると、まるで下着姿のようなもの。
王妃が公的な場に晒すような姿ではないと捉えられたのです。
大衆から大変な批判を受け、サロンから撤去されてしまったこの作品ですが、王妃自身は気に入っていたようで、いくつかのヴァリアント(異作)を注文し、親しい人たちに贈ったそうです。
しかし、軽々しい最新ファッションを身につけ、贅沢三昧をしているというマリー・アントワネットの悪評は、不安定な社会の怨嗟のターゲットとなっていました。
王妃を嫌う人々からは、「王妃が自ら下着姿を描かせたのだ」という噂もささやかれたそうです。
それだけ、王妃の悪評は高まってしまっていたのです。
マリー・アントワネットの評判が地に落ちていくのとともに、高まっていく革命の予兆。
そして、1789年7月14日、ついに群衆がバスティーユ監獄を占領。
やがて王族は自由を奪われ、革命は激しさを増していきました。
ヴィジェ・ル・ブランはこの時、娘と二人で農民の扮装をし、イタリアのトスカーナ大公国へと逃れていきました。
ローマやオーストリア、そしてロシアに亡命した彼女は、女帝エカテリーナ2世のもとでも肖像画を描いています。
サンクトペテルブルクでヴィジェ・ル・ブランは、パリに留まった夫に頼み、王室建造物局からの注文作としては最後となったこちらの作品を送ってもらい、手元に置いています。
※4 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブラン《白いペチコートに青いルダンゴト・ドレスを羽織って座るマリー・アントワネット》1788年
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Gérard Blot
描かれたのは、フランス革命の前年である1788年。ルイ16 世はこの肖像画を大変気に入っていたそうです。
しかし、ヴィジェ・ル・ブランが再びフランスへ戻ったのは、亡命から13年後、1802年のことでした。
ルイ16世とマリー・アントワネットは断頭台の露となり、すでに革命政府も転覆。
ナポレオン・ボナパルトが自らを終身統領に規定した年でした。
続きはまた来週、マリー・アントワネットについてお届けします。
参考:「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」カタログ 発行:日本テレビ放送網 ©2016
※1 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブランと工房《フランス王妃マリー・アントワネット》1785年
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Christophe Fouin
※2 ルイ・オーギュスト・ブラン、 通称ブラン・ド・ヴェルソワ《狩猟をするマリー・アントワネット》1783年頃
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Gérard Blot
※3 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブラン《ゴール・ドレスを着たマリー・アントワネット》1783年頃
ワシントン・ナショナル・ギャラリー、ティムケン・コレクション Courtesy National Gallery of Art, Washington
※4 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブラン《白いペチコートに青いルダンゴト・ドレスを羽織って座るマリー・アントワネット》1788年
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©RMN-GP (Château de Versailles)/©Gérard Blot
<展覧会情報>
「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」
2016年10月25日(火)-2017年2月26日(日)
会場:森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)
開館時間:午前 10時-午後8時(但し、火曜日は午後5時まで)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:会期中無休
展覧会サイト:http://www.ntv.co.jp/marie/
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