激しい革命のなか、マリー・アントワネットは母として、王妃としての最後の輝きを残し、断頭台への階段をのぼりました。
今月は、 森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)で開催されている「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」の作品を紹介しながら、マリー・アントワネットについてご紹介します。
《1793 年10 月16 日、死刑に処されるマリー・アントワネット》(※1)■
ウィリアム・ハミルトン
《1793 年10 月16 日、死刑に処されるマリー・アントワネット》1794年
ヴィジル、フランス革命美術館 ©Coll. Musée de la Révolution française/Domaine de Vizille
―妹よ、あなたに最後の手紙を送ります。
私は有罪判決を受けた所ですが、それは恥ずべき死ではありません。
死は犯罪者たちにとってのみ恥ずべきものであって、
私にとってはあなたのお兄さまと再び一緒になれるものでもあるからです―
上記は、マリー・アントワネットが死刑台に上る直前、義妹に送った最後の手紙の一節です。
そこには、死に際して毅然とふるまうマリー・アントワネットの姿が残されています。
1789年の春、フランス国王ルイ16世は、貴族、聖職者、第三身分による「全国第三部会」を招集して、財政危機を解決しようとしました。
しかし、不平等に税を徴収され、さらに天候不順による農作物の不作で苦しい生活を強いられていた平民たちの代表「第三身分」の不満は頂点に達していました。
彼らは「第三部会」に愛想をつかし、独自で「国民議会」を立ち上げ、これを正式な議会とすることと、憲法の制定を目指します。
ルイ16世はやむなくこの議会を認め、貴族と聖職者の二つの身分も「国民議会」に合流するように説得しました。
しかし、これに反対する王族や貴族たちは、国王に強要して軍隊をパリに集結させ始めるのです。
パリがきな臭くなっていく中、マリー・アントワネットと、王弟アルトワ伯等の一派の独断により、国民に人気のあった財務総監ジャック・ネッケルが罷免されてしまいます。
民衆はこのネッケル罷免の報に憤慨。
武器と弾薬を求めた人々は7月12日に廃兵院におしかけ、7月14日には、バスティーユ監獄を占領しました。
事件を知らされたフランス国王ルイ16世が「これは反乱か?」と問うと、使者は「いいえ、陛下、これは革命でございます」と答えたとか。
その後、新たな議会は貴族や聖職者たちの特権を廃止。
10月5日と6日には、群衆たちがヴェルサイユ宮殿になだれ込み、王妃のアパルトマンへと侵入しました。
マリー・アントワネットは間一髪、王のアパルトマンへと逃れますが、群衆は王妃に罵声を浴びせ、姿をあらわすことを要求したのです。
この時、マリー・アントワネットは勇敢にもそれに応え、凛とした姿で群衆を感動させ、落ち着かせたといわれます。
しかし、群衆の求めに応じ、パリへと向かった国王一家がヴェルサイユへ戻ることはありませんでした。
パリのチュィルリー宮殿へと移った王家は、一時穏やかな時間を過ごしたそうです。
苦しい事態に結束を強くした家族の、束の間の日常生活でした。
しかし、1791年6月20日の夜、ルイ16世とマリー・アントワネットと子どもたちは、王妃の実家であるオーストリアへの逃亡を企てます。
手助けしたのは、王妃の愛人とされるスウェーデン貴族、アクセル・フォン・フェルセン(1755-1810)です。
※2 作者不詳《アクセル・フォン・フェルセン》18世紀末
ノルシェーピング、レーフスタード城/エステルイョートランド美術館
Photographer Jonas Karlsson/Östergötlands museum
こちらは、フェルセンの肖像画です。
「背が高く、すらりとして完璧な容姿、美しい瞳、くすんでいるが生き生きとした顔色、彼こそが女性が魅惑されるにふさわしい」(サン=プリエスト伯爵の回想録)と謳われたフェルセンは、王妃の取り巻きの一員でした。
同い年の二人は深い愛によって結ばれていたようです。
革命中も、マリー・アントワネットとフェルセンは不可視インクや暗号によって手紙のやりとりを続け、多くの人々が王家を裏切り逃亡する中、フェルセンは最後までマリー・アントワネットに忠義を尽くし、国王一家を支援し続けました。
彼の手引きによって、オーストリア軍と合流すべく国境近くの要塞を目指した一行。
しかし、その計画は遅れに遅れ、王室一家は途中のヴァレンヌで、食事に立ち寄った店にいるところを発見され、逮捕されてしまったのです。
ルイ16世は、国民を見捨てて逃げようとしたとして、国王擁護の国民からの支持も失ってしまうことになりました。
捕らえられた国王一行はタンプル塔へと幽閉されます。
翌年1792年に王権は停止され、1793年1月18日、国民公会は多数決で王の死刑を可決します。
ルイ16世がギロチンにかけられたのは、それからわずか3日後のことでした。
7月、王妃は子どもたちや、付き従っていた義妹と離別。
1793年8月2日、コンシエルジュリ監獄へ連行されたマリー・アントワネットは、10月14日に革命裁判所へ出頭します。
この裁判の罪状は、証拠に基づくものはほとんどありませんでした。
誤解に満ちた批判が浴びせられましたが、近親相姦といった極めて悪質な誹謗に対しても、マリー・アントワネットは堂々と応じ、有名な言葉を残しています。
「ひとりの母親にかけられたこのような嫌疑にお答えすることは本性に反します。私はこのことを、この場にいらっしゃる方々のあらゆる本性に訴えます」
こうした、王妃の毅然とした態度には、陪審員も公衆も心を動かされたと伝わりますが、10月16日、ついに彼女の死刑が言い渡されました。
※1 ウィリアム・ハミルトン《1793 年10 月16 日、死刑に処されるマリー・アントワネット》1794年
ヴィジル、フランス革命美術館 ©Coll. Musée de la Révolution française/Domaine de Vizille
死を間近にした王妃の様子は、様々な著作者たちによって伝えられています。
処刑の日、彼女は喪服のロング・ドレスではなく、「朝のドレスとして使っていた白い部屋着」を着ていたそうです。
「荷馬車が停止すると、彼女は手を縛られたままであったにもかかわらず、支えを必要とせず軽やかにすばやく降り立った。牢獄を出るときよりもさらに平静で泰然自若とした様子で、むしろ勇気を誇示するようにして階段をのぼった」
「勇気だけでなく一種の性急さをもって、彼女は死刑台への階段をのぼった」
馬車から処刑台の上まで、マリー・アントワネットが躊躇することのない、素早い動きで移動したことが言及されています。
フランス革命は国王夫妻の死刑によって終結したわけではありませんでした。
混乱し、次々と入れ替わる政治体制。
多くの人々がギロチン台へと送られました。
過激な革命運動が沈静化した後、ナポレオンの独裁へと向かったフランス。
ナポレオンが失脚すると、ブルボン王朝が一時復活します。
すると、悲劇の国王一家は君主制の殉死者として持ち上げられ、崇拝の対象となったそうです。
※1 ウィリアム・ハミルトン《1793 年10 月16 日、死刑に処されるマリー・アントワネット》(部分)
ウィリアム・ハミルトンによる上の作品でも、マリー・アントワネットは高貴で美しい姿で描かれ、まるでキリスト教の聖人像のように天を仰ぐ表情をしています。
彼女に憎悪と罵声を浴びせている民衆が醜い表情をしているのとは対照的です。
※1 ウィリアム・ハミルトン《1793 年10 月16 日、死刑に処されるマリー・アントワネット》(部分)
ルイ16世とマリー・アントワネットの間には4人の子どもがありました。
※3 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブラン《マリー=テレーズ・シャルロット・ド・フランス、通称マダム・ロワイヤルとその弟の王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ》1784年
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Christophe Fouin
こちらは、ヴィジェ・ル・ブラン(1755-1842)によって描かれた長女のマダム・ロワイヤル(1778-1851)と2番目の子で幼い王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ(1781-1789)の二人の姿です。
三番目の子どもで次女のソフィー・エレーヌ・ベアトリクスは11ヶ月で夭折。
病によって王太子が1789年に亡くなると、末子で次男のノルマンディー公ルイ=シャルルが王太子となりました。
父母が刑死した後、タンプル塔に取り残された王太子は、牢番夫妻の元で過ごしました。
自分が王家の身分であることを忘れるよう教育を受け、その後、不衛生な環境で世話されることなく幽閉されたそうです。
衰弱し、結核を患った少年ルイ17世は、1795年に死去したとされています。
しかし、その後タンプル塔で死んだ子どもはルイ17世ではないという噂が広まり、「タンプル塔の子ども」の謎は、近年までまことしやかに囁かれ続けました。
唯一生き延びたのは、長女のマダム・ロワイヤルでした。
彼女は変化する政治情勢のなか亡命生活を送り、晩年はオーストリアの城で静かな余生を過ごしました。
彼女は、タンプル塔で家族と最後のときを過ごしていた頃の様子を回想録に残しています。
午前中は学習にあてられ、6時になると「弟は階下に降りてきた。父は夕食の時間まで弟に勉強と遊びをさせた」そうです。
そして、父王は処刑される前に仕えていた人物に対して、「非常に大切なものであり、このときまで大事に保管していたと言いながら『私の母上と私たちの髪の毛の束』を託した」と伝えています。
こうした遺物は王家の支持者たちによって聖遺物として大切に保管され、子孫へと継承されていきました。
まるで小説のようなマリー・アントワネットの人生。
きらびやかな宮廷生活に花を添えた無邪気な美への執着と、最後に見せた王妃として、母としての強さは時代を超えて語り継がれています。
参考:「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」カタログ 発行:日本テレビ放送網
※1 ウィリアム・ハミルトン《1793 年10 月16 日、死刑に処されるマリー・アントワネット》1794年
ヴィジル、フランス革命美術館 ©Coll. Musée de la Révolution française/
Domaine de Vizille
※2 作者不詳《アクセル・フォン・フェルセン》18世紀末
ノルシェーピング、レーフスタード城/エステルイョートランド美術館 Photographer Jonas Karlsson/Östergötlands museum
※3 エリザベト=ルイーズ・ ヴィジェ・ル・ブラン《マリー=テレーズ・シャルロット・ド・フランス、通称マダム・ロワイヤルとその弟の王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ》1784年
ヴェルサイユ宮殿美術館 ©Château de Versailles (Dist. RMN-GP)/©Christophe Fouin
<展覧会情報>
「ヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展 美術品が語るフランス王妃の真実」
2016年10月25日(火)-2017年2月26日(日)
会場:森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)
開館時間:午前 10時-午後8時(但し、火曜日は午後5時まで)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:会期中無休
展覧会サイト:http://www.ntv.co.jp/marie/
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