先日、嬉野まで、某外資系保が険会社の研修に行ってきました。温泉や飲み会がメイン?かもしれませんが、各地の代理店が集い、活動報告など交流会がありました。
優績代理店の後援会やら、篠栗の和尚さんによる、面白い話など盛り沢山でした。
その中でよく見られた光景は、成功した自分の体験談などを惜しげなく後輩に教える姿でした。
他社では、腹の探り合いって感じで本音をみせないことがほとんどだったのですが、素直に意見を出し合っているのは新鮮でもありました。
しかも、教えるほうも、楽しそうで。酒の勢いもあるかもしれませんが。
私たちの多くは「幸せになりたい」と願うものです。
その幸せの定義って、それぞれ違うものかもしれませんが、言葉にすると、持続的で穏やかな心理状態を言います。
宝くじで突発的に当たった、この企画が成功したというような事例は一時的なよろこびはもたらしますが、継続的ではありません。
幸福感について、お金を追求すること執着する人がいますが、人間が物質的な富に幸せをみいだせないことは心理学的にわかっています。
人間は、人と人とのつながりで幸せを感じる動物なのです。
ある学者は、「人間は健康や親密な人間関係に恵まれていること、良い結婚をし、子供を授かり、家族なかよく暮らすことが幸福感の源泉だ」と語っています。
さらに私たちは、困っている人を見ると、その人を助けるためにいろんな行動をします。お年寄りの荷物をもってあげたり、次の人が乗るまで扉を開けていたりボランティア活動活動に励んだり、人を援助する行動は至るところで見ることができます。
なぜ、このような援助行動をとるかというと、援助者自身が幸せを感じるためです。
人間は、援助行動によって、自分自身の人生に意味や価値を見出し自己評価を高めることができます。
援助行動は、他人を助けながら、自分自身も幸せ感覚を得ることができる行動なのです。
研修で自分の営業方法を惜しげなく教えていた古手の代理店は、教えることとあわあせて自分の幸福感を感じていたんですね。
教えることを出し惜しみせず、知っていることは教えるということも自分が幸せになる方法の1つでもあるのです。
変に相手を勘ぐったりしてケチな行動していると、いつまでも自分が幸せになれません。
仏教で「施す」ことを教えているのも、執着を捨てることと同時にこんな理由があるからなのかもしれませんね。
それでは今日はここまで。