あさがおの夜に
「君はいつもかってさ」
適当なメロディにのせて歌う。やけに優しい音程に思わず顔を顰めた。優しい気持ちとは間逆にいるのだから可愛くない顔になっても仕方が無い。
気が付くと十日間、彼と会ってもなければ電話もしてない。こちらからかけるのは癪だから発信履歴は十日前のまま。着信履歴も等しく同じだ。不幸なことにメールはあった。
<週末、会えない>
着信音に浮き足立った私はその内容に戦慄き、いうまでもなく返信はしなかった。
――私は怒っているのだから。
言い合う相手もいないから、降り積もる灰のように鬱憤が体の中に溜まっていく。雪は溶けても灰は積もるばかりで、どんどん気持ちが暗く暗く覆われていく。
「誰かが灰皿交換してくれなきゃ」
鬱憤を吐き出そうと口から出るへたっぴな節についに苦笑してしまう。私は歌がとても下手。気づかせたのは彼だった。
歌にあわせるようにトントンと灰皿代わりの欠けた小皿に灰を落とす。彼がいないと煙草の量が増える。それに気づいているけど気づかない振りをしている。彼に依存しているなんてこれっぽっちも気づかない振り。
「年下の彼は仕事が大事」
歌は続く。歌詞は思いつくままの気持ち。物書きにしては随分と芸のない詩だ。決して彼には言わない台詞。どうしようもないただの不満。
「だって格好悪いじゃない」
口にして、歌にして、あまりに外れた音程についに噴出してしまった。
煙草の火を蚊取り線香に移すと、長い線のような煙がゆらゆら夕暮れの空に上がっていった。
古びた一軒家は祖父が私に残した最期の贈り物だ。鬱蒼と茂るような庭はツツジもシダもミズゴケすら、全て手間をかけずにすむように計算されて植えられている。庭いじりなど興味も示さなかった私のために祖父が考慮したのだろう。
けれど計算違いね。
毎日欠かさず祖父の贈り物に手を入れる。元の姿を壊さぬようにと心して。古びた家も全て祖父がいなくなったときのまま。この空間だけ時間の流れが遅いのかもしれない。
年季の入った艶やかな板張りの縁側で素足をぶらぶらと揺らしながら長く細く煙を吐く。蚊取り線香の隣で、もやがかかるように白い煙が揺れた。
『都会の一軒家とは思えないね』
まだずっと涼しい季節。初めて会った彼が言った。学生の本分を放り出したばかりのしがない物書きの私に、充実した学生生活をおくっていたであろう青年はそう言った。随分若く見えたから、なんて無礼な若者かと立腹したのを覚えている。
押し黙った私に彼は 「悪い意味ではなく」 と、つけたした。少し笑いを含んでいたけれど嫌味な笑いではなかったから 「そうでしょうとも」 と胸を張って答えたはず。そして彼は大きく笑った。私の言い方が年寄りくさいと付け加えて。
「いっちゃん」
ぼんやりあおいでいた団扇が落ちた。煙草でなくてよかったと、胸をなでおろしながら随分と日が沈んでいることに気づいた。空が藍い。街灯に色がともっている。胸ほどまでの垣根越し、あの夏のように彼はいた。
「蚊取り線香なんて要らないんじゃないの」
こんもりたまった煙草の灰を眺めての皮肉。私は吸いかけの煙草を皿で潰した。彼は非喫煙者だ。自分の肺と私の肺を守ることが使命らしい。
「煮詰まってたのよ」
嘘だ。原稿はとっくに上げてしまった。寂しさは強固なエネルギーになる。
彼は肩を竦めると庭に繋がる木戸を開けて入ってきた。そこから出入りするのは裏のじいさんと隣のおばさん、そして彼くらいなものだ。編集者様だって入ってこない。
「暑いね」
藍色の空の下では日中の熱が嘘のように涼やかな風が頬を撫でていた。熱いのはきっと私だけだ。彼を直視できないでいる。
「そうだね」 と彼は私の隣に腰を落とした。
私から奪った団扇でぱたぱたと仰いでいる。沈黙が苦にならないのは何故だろう。それでもぼやくように呟いてしまったのはやはり胸に灰が積まれていたからだろうか。
「会えないんじゃなかったの」
庭に咲く朝顔と見つめあう。花弁の藍は空よりも瑞々しい。
「週末はね」
今日は何曜日だったかと頭をめぐらした。――まだ木曜日。
「なるほど」
年下の彼の喉が揺れた。彼も私も朝顔を見ていて、だけど私の全ては隣に座る彼に向いている。彼はどうだろう。同じだったら嬉しい。でも少し恥ずかしい。
「朝顔はさ、夜にも咲くんだ」
「さぁ。普通のと違うのかしらね。朝も昼も夜も咲いているわ」
「前は咲いてなかったよね」
彼の言う 「前」 には確かに咲いていなかった。あれは彼がもたらした朝顔だ。
『花の少ない庭だね』
――祖父は花よりも葉植物が好きだったのよ。
『庭なのに』
――庭なのに?
『庭には花壇でしょうが』
――意味が分からないわ。
『庭には花が咲くものさ』
――花ねぇ。
『もうすぐ暑くなる。そうだね、たとえば夏らしく』
彼は向日葵と言ったから、私は朝顔を植えてみた。夏らしい花には違いない。あの頃から私の天邪鬼は健在だった。気まぐれに植えた朝顔は何の因果か宿根で、ついには越冬までしてくれた。今年もすくすくと蔓を這わせ、藍色の花をこれでもかと咲かせている。
あの頃からこの庭に花が咲き、あの頃から私は変わった。祖父の造った庭の形に少しだけ色がともった。
「来年はキキョウでも植えたらどう」
「桔梗なんて知ってるの」
夏の花。私の好きな花でもある。
「知ってるよ。去年着ていた浴衣の柄でしょ。教えたのはいっちゃんだったよ」
そうか。そうだった。彼が祭りに行こうと誘った。私は恥ずかしくも浴衣を新調し、彼が似合うと褒めてくれた。ただ嬉しくて、ただ恥ずかしく、誤魔化すように柄の話をしたのだ。
『一番好きな夏の花よ』
そんなことを言ったけれど、一番になったのはそのときだった。
「忙しいのね」
少し考えるように彼が空を見る。気の早い星が合図のように点滅している。
「新人だしね」
出版社に勤め始めたばかりの彼は私みたいに自分勝手な物書きに振り回されている。よれよれのスーツを笑うと、一日中走り回ってるんだよと彼も笑った。
「出版社なんてはいるからよ」
「いっちゃんがそれを言うかな」
彼は言ったのだ。筆を持つ私が好きだと。願わくばその姿を一番長く見ていたいと。まだその願いは叶っていない。彼の願いも私の願いもまだ途中。だけど庭は日々色づくばかりだ。
「紫陽花もきれいだよね。この庭に合いそうだ」
「そうねぇ」
庭をぐるりと見渡していく。
「考えてみましょうか」
彼は大きく頷いた。けれど庭を見渡し思ったのは来年花咲く向日葵だ。彼の言った向日葵が来年庭に咲くだろう。次の年は桔梗か、紫陽花。祖父の庭が変わっていく。天邪鬼の私の庭へとちょっとずつ時間を経て変わっていく。祖父の庭から私の庭へと。彼といる私の庭へと。
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