児玉あゆみオフィシャルブログ -3ページ目

コンタクト。

今朝、気づいたら指を切ってしまっていて
かなり流血して、
声を大にして、
ストレスフルですニコニコ
指や手を怪我することに
異様なほどの嫌悪感を持っております。
それは以前から手を怪我すると使い物にならなくなるような
仕事に就いていることが多かったので
そうなると稼げなくなるので
危機感とともに多大なストレスを感じるのでしょうヒヨコ
洗い物や家事もできなくなるうえ
手先足先というのは細胞分裂がおそく回復が遅いヒヨコヒヨコヒヨコ
これもまたいやな要因でございます。
いまこれはなんとケータイから更新していますが
親指切ったので
人差し指オンリーで打ってます。
がんばれ現代文明。




最近、いろんな友人とコンタクトをとるようにしています。
新たな道に進もうとしているからです。
決断するまえには必ず沢山の人の意見を聞いてみないと気が済まない。
それはきっと、
人の人生を知ることによって
実体験ではないけれども知識として
すいも甘いも知れるからだと思う。
知れる?というか聞くことでそれを想像することはできるから
だと思う。
それは本も同じだと思うけれど。
とにかく、そのようにして色んな人の意見や人生をきいて
分母を増やしたい。
結局決めるのも施すのも自分だけど
そんな沢山あるなかから冷静に決めたのだと信じたいから。
少なからず新たな道に自信を持ちたい。
だって肯定してあげられるのは自分しかいないと思うから。




そして私の家族はみんな人の話を聞かないヒヨコヒヨコヒヨコ
自我が強いのでしょうと最近は分析してそう思う。
直感的とかそういうんじゃなくって
自我も欲も強い上に独裁的。
といいますか・・・
それはそれでけっこうなことだと思う。
けれど結局それでいつもうまくいかない人生模様を
昔からずっと見ていると
うんざりしますニコニコニコニコニコニコ
私にも血縁者ゆえの自意識や感情移入というものがありすぎるのかもしれませんが。。
なるべく意識せずに・・・と生きてきたつもりでも
無意識のところに入り込んでくることもあります。
まぁなんといいますか
そのようなものを経て、
私は絶対人の意見に耳を傾けたい・
最終的に選択しなかったとしても一旦受けとって考えたい
そんなものにすごく執着しているのかもしれません。
実際そのようにしてきて
報酬はでかかったと自分なりに感じたりはしております。。。





そんなかんじで最近は
友人とコンタクトをとって話したりお茶したりしてます。
酒はこういうときはのみません。
楽しい酒しかのみたくないというか
決断せねばならない時期に
理性的になれないあらゆるものは
できるだけ排除したいのです。





最近ふと思うのは
もっかい屋久島にいきたいということ。
あのふかふかの土をふんで
肺いっぱいに森の水分を吸い込んで
ただひたすら歩きたいなぁなんて
思ったりします。
一年以内には絶対いこう!と思いますヒヨコ
屋久島を思うと、
あの森で死んで土に還れたら最高だよと
平然と言っていた友人をいつも思い出します。
いつもそれを思い出すと私はそんなふうに思えるかどうか?と
毎回自問自答するのですが
はい、といえたことはないです。
もっと生きたいし怖いととっさに思ってしまう。
そう思うたびに、どんなに不運なときでも
私にはまだ感謝しきれていないものがゴロゴロあるのだろうと思う。
つまりすごく恵まれているのだ、と。





そして最近は
以前屋久島で知り合った研修医くんたちのことをよく思い出す。
そのたびに、
何故そのタイミングで医者になろうと決めて
どうやって一歩目を出せたのかを
なぜ私は聞かなかったのだろうと猛烈に後悔します。
あのとききっと私は
医者!なんかすごい!!ネ!
とかしか、考えていなかったのでしょうヒヨコ
ざっくりとしかとらえてなくて感情でしか生きていなかったから。
そのような境遇のひとはその後なかなかいないので
残念ながら話をきくことができない。
そのときというのは一瞬なのだなぁと思ってしまう。



いまは自分も一歩目をだそうと奮闘している。
だからいろんなひとの勇気の一歩目を教えて頂きたいなと
思っています。
あーよく人差し指で書ききりましたヒヨコヒヨコヒヨコ

内へ向かう時間。

最近の話をもうひとつ書きます。
最近、なにかがのりうつったかのように
本を読んでいますヒヨコ
読み、まくっています(笑)
ここまで本にとりつかれるのは
小学1年生いらいではないかというほどです。
・・・ってどれ程やってはなしですけれども。ヒヨコ




小学1年生からそれこそ現在に至るまでは
本は必要最低限しか読まなかったです。
ゆーても勉強の必要な本の量って結構あるとは思うんですけども。。
なんというか
これほど楽しんで勇んでそして時間を惜しんで
本を手にするというのは小1以来ですきっと。
最近、本を猛烈に読むことで
小1とか学生のころとかをふと思い出したりします。
しかも、その記憶どこにあってんみたいな
完全に忘れていたことや景色や感情を、です。




ここまで最近本読むのが楽しいと
なんで今までこのぐらい読まなかったのだろう?とは思わなくはないのですが
それはあくまで本の魅力を強く再認識してるだけであって
過去の記憶をさかのぼると
あの学生のときに本に魅力をそこまで感じないのは
やはり当たり前だったな、とか
変に納得してしまったりしています。




早いはなしがつまんなかったんだと。(笑)
あの頃、っていっても小1から今までってえらい長いですけどもヒヨコあせる
まぁ全てがおもしろいくらいにつまんなかったです。
そんな記憶すらつまんなすぎて暗に封印?してしまっていたのを
ふとした瞬間に思い出してしまう最近です。
きっと自分のどこかの精製工場で浄化や還元されかけているのだと思います。
いやーしかしつまんなくってヒヨコ
組織とか集団とかおんなじとか拘束力とか大人の区分の人とか
そんなものにうんざりしていた気がします。
色が全部モノクロで
つまんなすぎて地面ばっか見て歩いてた気がします。
規律とか点数とかほんとユーモアがなくて
けど本読んじゃえば周囲の大人が満足する点数なんて
簡単に取れてしまったし
そんなためのツールに本もなってしまっていたこと自体に
失望していたのかも・・・・




ってなんか大袈裟な話になってしまいましたけれども(笑)
いやでも、きっとそうなんだろうな
って納得してしまうくらい
そのぐらい最近の本にたいする熱意や興味はハンパないですヒヨコヒヨコヒヨコヒヨコ
つまりもともとはすごい好きなものなのだけど
拘束力が嫌いなゆえに最小限に抑えてた、、といいますか。
本というものがどっかでつまんないもの、みたいに
リンクしてしまったから避けてただけで
大人になって拘束力がある種はずれてある種自由になったことで
逆に振り切れるようにはまってしまったというか。。
そう思うと意志の力や時期ってすごいなと
思ってしまいます。



さらには、今というタイミング的なものもあると思います。
今は確実に自分の内に向かっている時期だと認識しているので
今は久々にゆっくりじっくりと自分という人間に
時間を丁寧にかけて向き合おうとできているというか。。
実際向き合えているかはおいといて。。ヒヨコ
なかなか日々をこなしていると
立ち止まって・椅子を用意して・腰掛けて・
みたいな作業って出来ない。
立ち止まるの一つにしたって相当な労力だし気力だし
椅子用意すんのもめんどくさいし大変だし
ましてや腰掛けるだなんて!!!
って時間的にも金銭的にも全てにおいてそうなるから汗
そう考えると
じっくり自分の内へ向かう時期って
人生の中でそうないのかも
なんて思います。
だから今という私のなかで流れている時間はとても愛しい。
自分のことをじっくり考えるというのは自分にとって
物事を俯瞰で見る訓練でもあるから
急ぎすぎずにしっかりと次の変化の土台を整えたいと思っています。
いまのうちに色んな物を蓄えられるだけ蓄えて
扉を開けるのにバッチリな時期がきたら
その蓄えで色んな扉を自在に開けれる自分に。




なっていたいものです。

変化。

お久しぶりすぎます。
毎日暑すぎて目がギンギンするかんじがするのですが
皆さまはいかがお過ごしでしょうか。



私は相変わらず、
色んなことについて考えていました(笑)
そのへん、いつもと変わりませんヒヨコ
けど、考える方法?といいますか
考えるときの切り込み方や尺度は
変わりました。
否、変わろうとしている最中?なのかもしれません。
以前より、執着することに飽きた感があり
その分斬新な発想転換などで
考えや感じ方を変えてみたり
変えてみることで、
どこまで自分が変化に耐えうるのか?などを
試してみたりしています。



よくわからないけれど
とにかく変化の時期って痛みが伴うのかもしれない
ってそう思います。
変わるってことは節目でもあるように思うし
節目には痛みがつきものではないかと、
過去を思い出すと自分に関してはそう思います。
自分が分裂してしまいそうになったり
身体的肉体的な痛みもそうだし
心の痛みもそう。
そういうものは
変化の前の熱というか
体の中で細胞が新しくなろうとしてて
皮である体がついてこないというか
そのようなことが自分の見えないところで自分に
起きているのじゃないかなと思ったりしてます最近。




だから
色んな痛みを感じれば感じるほど
自分はいま色んな変化を享受しようと、
あるいは、
変化の最中であるのだと思い
見えない、聴こえない
自分の心の形や声や未来に
五感を研ぎ澄ませようと意識するようにしています。
そうして五感を研ぎ澄ませながら今の自分をわかろうと思いながら
体や心や思考と接するようにすると
あらゆる痛み、すら
愛しさ、のように感じてしまいます。
いま、自分は変化しようとしているのだろう、と。
いま、自分は変化に耐えうる自分になろうとしているのだろう、と。
このあらゆる熱が噴出している時期を
嘆くどころか
慈しんで大事にして味わいつくしてしまおう、と。





変化、には熱はつきものなんだ。
そんなことを思ってしまいます。
きっとこれからも私はどんどん変化を味わう。
その熱は人間関係で生じるかもしれないし肉体的精神的かもしれないし
思考の奥深くかもしれないし
喜怒哀楽かもしれないし
その熱量も強い痛みかもしれないし違和感かもしれないけれど。
熱を帯びている人間は美しいなと思います。

少しのこと。

最近、
体のいろんなところが悪く(顔とかいわないでください)
色んな医者に世話になることが多い毎日ですが
医者さがしってとっっっっても大変汗
まず探す。
この情報化社会のなかでは
なにかを知りたいと思った時に
いい情報も得られるけどガセ?というか自分が望んでるものではない場合もたくさんある。
分母が大きいだけに
本物を探すのは大変な作業・・・雨
探して探して、
人に聞いて聞いて、
やっとこさめぼしいところを見つけましたら
次は日程。
日取りを空けて予約をして
電車をのりついで
到着して問診うけて書いて待って、
やっと順番まわってきて
薬もらって
そしてまた電車をのりついで帰宅する。
これはもはや、完全なる一日仕事です。




なぜこんなこというかって。。
アバウトなかきかたですが
戦ってない医師が多すぎるのではないかと
思うのです。
患者からしてみたら
こんな一日がけでいって帰って、
しかもそこに辿りつくまえに
もっともっと時間がかかっていて
痛みなどに耐えてその日を迎えている。




結果として不可能であっても
せめてほんの少しでも共感理解賛同を
してくれませぬか~~DASH!!?
できないから~とものの何秒で匙を投げられるときの気持ちといったら
表現のしようがありません。。ショック!
できないから~のまえに
なんとかできないもんか~という姿勢だけでも
見せていただけないものでしょうか!?しょぼん




・・・・全く、
誰向けの発信やねんヒヨコ
まぁそのぐらい
憤慨することの多い医者探し、
ということですね、はいヒヨコヒヨコ
しかし名医というものは絶対どの分野にもいるものでキラキラ
そういう方と出会えて体がよくなっていくときの
感動は
これもまたすごいものがあります。
そういう方はやっぱり
戦ってんな~~って思う方が多い印象です。
そういう人と出会えると
『一緒に絶対治していこう!』という気持ちにおのずとなります。
小麦粉で病気が治る実験?みたいなんありますけど
やはり信頼性といいますか
人間力といいますか
そういったものが
東洋西洋関係なく
すごく大事なのだなと思います。
かたや
あぐらかいてるとこにお金と時間と労力を
費やすほど悲しいことはありません。。。





と、そんな日々ですよ(笑)
そのほかの出来事といえば、
絵を真剣に習おうかと探してみたり
同時に児童心理も学びたい欲がふつふつとわきまして
勉強しているところです。
前に進むためにはいつ何時でも少しの勇気を出せばいいんだと
意識しながら生活するようにしています。

平穏。

腐ったバナナを真夏で放置していたら
下にあったHPphoto Smartが
バナナくさぁーくなって
機能しなくなっていたのは
昨年夏のはなしです。
そしてそれを新しく買い替えて
いまかいている絵本をスキャナーで読み取って
このblogにのせて
ちょっとはそれらしいblogにしようかしまいか、
と悩んでいるのが最近です。
米でつくれるSANYOのパン焼き機を買って経済活動のお役に立とうかどしようか
悩んでもいます。
つまり平穏です。





ついこないだ行ったL'Arc-en-Cielのライブでは
雨濡れ覚悟で
目立ちたいがために
頭に大きなバラの花をつけて
いかにもラルクファンの一端ですみたいなかんじでいったのですが
口に入ってきた雨が
以前よりもはるかにはるかに
マズすぎて
絶望しました。。
思わず、マズ!といってしまいましたよ。
鉄?鉄棒?鉄棒したあとのきったなーい手でアメチャンたべたとき?
みたいなとにかくそんな味がしましたよ。
ガクブルです。。
こんな東京東京ナンカじゃないもん。。!
大阪出身ですけどね。





しかし昨年?一昨年?屋久島でなめた雨とは
比較出来ないほどちがました。
まぁそもそもちがうでしょうけど
なんていうか環境汚染めっちゃ身近に感じました。





尊いのです。
朝、陽がのぼって平穏に夜がきてまた必ず朝がくるということ、
そう当たり前に信じきれる環境にあること、そのすべて。
非日常なんてすぐ隣合わせだしそれはすぐ隣の人かもしれないしそれは明日かもしれない。
常に"有る"のではなくて"無い前提"でいつも過ごせたら
もっともっと身近なことに慈しみをもったり感謝したり強い気持ちでいれたりするのでしょうね
と自分自身言い聞かせたりもしてます。
明日がその人とこの場所と最後かもしれない。
明日が自分自身や日常が最後かもしれない。
そう想像すると、
恐怖とともに
ドバーっと感謝の波が押し寄せてきて
それだけで、
胸がいっぱいになって自分がいかに今という時間瞬間
幸せなのかを痛感します。